二人の小次郎、鶴田と高倉について
「軽井沢名画サロン三の日会」で、三船敏郎の宮本武蔵が上映された。
何歳の時だったろう観たのは?昭和三十年と三十一年の製作だから
中学二年の頃だったろうか・・・

一方、中村錦之助(後に萬屋錦之介)の武蔵は昭和三十六年から四十年の年一本の五部作であった。
大学一年から毎年楽しみに観たものだ。特に「般若坂の決闘」と「一乗寺の決闘」は強烈な印象を与えた。
三船より一回り若い錦之助だから、荒々しさ、スピード感が抜群で、東宝作品らしさが、全く違ってみえた。

いわゆる格好良さばかりの美学ではなく、泥くさく人間の生きざまを追求した作品であった。

「宮本武蔵」両作品の比較
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武蔵         |三船 敏郎          |中村 錦之助
小次郎      |鶴田 浩二          |高倉 健
お通          |八千草 薫          |入江 若菜
監督          |稲垣 浩             |内田 吐夢
製     作     |東    宝              |東映
|三部作              |五部作
製作年度   |昭和30~31年   |昭和36~40年
当時の年齢|三船敏郎36歳~|中村29歳~
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三船武蔵は、豪快な人間、出世欲に燃えた力感溢れる粗野な人間、
誰にも負けない感じを必死に押さえて演じているように思えた。
錦之助武蔵は、柔な人間だが秘めたる出世欲と激情の爆発が、一体感を
もって全編貫かれていて、自然に応援したくなる感じを持ったものだ。
三船の無骨で精悍な力強い武蔵像に比して、
柔軟でひ弱そうな知恵者の錦之助武蔵像は名作故に評価がわかれるところだろう。

佐々木小次郎はち言えば、両者とも静なるタイプの俳優だから、
鶴田浩二、高倉健のファンが良し悪しを判断するのであろうが、
私は品格といい、芝居の質といい、小次郎像に近い鶴田さんに軍配を上げたい。
これは、やや偏見的かもしれない。
しかし「巌流島の決闘」はあまりにも名場面だ、
今も両の瞼に焼きついている武蔵VS小次郎である。

宮越 澄(監督)


東宝砧撮所から車で5,6分の所に農場オープが有ります。
このオープで、黒沢明監督作品、”七人の侍”(1954年、ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞他)や、
稲垣浩監督作品”無法松の一生”(1958年、ヴェネチア国際映画祭 グランプリ他)等
の日本映画の名作が生まれた所です。

撮影にまつわる、エピソードは色々有ります、その話は次の機会に話します。
その農場オープンに隠し砦の三悪人のオープンセット、城跡が建てられました。

台本にはN(夜) 8(シーンナンバー)
城内広場、O(オープンセット)と書かれている。

N8
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城内広場(O)
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  夜。
  野天に塁々たる捕虜達の寝姿。
  それを取り囲んでいる点々たる篝火と槍を持った番卒達の姿。
  昼の疲れで死んだように眠っている捕虜達の間を、人影がモソモソと動く。
  太平である。
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  「静まれッ!!」
  「騒ぐなッ!!」
  番卒、おどかしに発砲する。
  それが混乱に輪をかける。
  混乱jは頂点に達し捕虜の群ドッと一方の雪崩れる。
  その雪崩に取り残された、又七

                 (隠し砦の三悪人)台本より

軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ--隠し砦の三悪人

城跡の広場のシーンには、500人ばかりの捕虜達が登場します。
撮影は夜です。準備は朝の9時開始です。

衣装担当の助監督と捕虜汚しに取り掛かります。
捕虜の役は、エキストラがほとんどです。
10人ばかり汚した所で、助監督が、汚し具合を黒沢明監督に、確認してから
次の作業を進めようと云うことになり、汚し終えた、エキストラの捕虜5人移れて
監督の所に行きました。

監督は何も言わないで 「誰か舞台袖に行って、バケツに灰をもらって来てよ」
その声が終わらない内に、助監督の1人が走った。
待つ間も無く、灰を一杯に入れた、バケツを両手に提げて走って来る。
監督は5人のエキストラを並べて頭からバケツ一杯の灰をドサッと被せる。
灰はモウモウと舞い昇り一瞬エキストラの姿が見えなくなる程、広がった。

「衣装さん、これでイインダよ!」
監督の手際の良さと、迫力に、私は唯・茫然と見て居た。
エキストラの捕虜を二列に並べて、私が軍手で半袖鎧下にワックスを塗る。
助監督が灰を頭からぶっかける。嫌がるエキストラ達にはお構いなし。
襟首に、肩に、腕に、時には頭顔までも、汚しの芸術も何もあったものでは無い。
唯・機械的に手を動かす。がむしゃらにワックスを塗っていく。後から灰を掛けて来る。
助監督の灰が無造作に、汗まみれの顔、首筋に飛びかかる。
汚しをして居るのか汚されているのか・・・・・・・。

無我夢中で汚し続けて、終わってみると、私も助監督もエキストラの捕虜以上に汚れていました。
昼間の準備がすべて終わり、撮影は夜です。

撮影場所が決まり、カメラが複数設置されます。それに合わせてライティングされます、
エキストラの捕虜達は、城の石段の上にスタンバイして居ます。
助監督が「テストを行います。」と大声で叫びます。
ちょっと間が有って、監督がハンドスピーカーで「ヨーイ!」ち声を掛けます。
この声で、スタッフ、出演者全員が緊張し、固唾を呑んで、次を待ちます。

「スタート!」の声と同時に助監督の打つカチンコの音が、夜の空に響き渡ります。
捕虜群が一斉に、石段を雪崩のごとく駆り降ります。石段に撒かれた、灰や泥絵具が埃として
白く舞い上がる。その中を一生懸命に駆る捕虜群。このテストが何回となく、繰り返し行われます。
エキストラの捕虜群疲れ果てて見る影も無い有様です。

汗まみれの頭や顔に灰が積もり、眼は落ち込み、ギョロッと。唇は白く乾き。
着物は裸の汗と油を吸い、その上に灰の埃をかぶり、汚れなく滲み、異様な姿です。

撮影は延々と続き、深夜におよびます。
エキストラ達は、各々顔はイガミ、着物は汚れ、破れ、捕虜の恐怖、苦しみ、悔しさ、惨めさ
哀れさが身体全体から感じます。もうエキストラではありません。
完全に捕虜になっています。これが黒沢映画です。
 やはり汚しは芸術です。


私が黒沢監督”隠し砦の三悪人”の
衣装担当スタッフとしてついた時には、
すでに、主役の三船敏郎・千秋実・藤原釜足の衣装合わせ、
扮装テストは終わって居ました。

三船の役は、秋月の武将(真壁六朗太)で刀が、
木樵り(きこり)に姿を変えて居ます。
半腰の鎧下・半袴・表皮のデンチ・紋入脚伴です。

百姓役の千秋(太平)は薄茶地小柄入半袖半腰着物、
半袴・客伴です。

藤原(又七)は紺地白葉板半袖半腰着物・
半袴・脚伴といういでたちです。
三人の衣装は、予備を入れて各2セット用意されていました。

この衣装の汚しが、
黒沢映画のスタッフとして参加した、私の最初の仕事でした。
汚しにも色々有りますが、先ず台本を熱読そ、物語りを完全に理解します。
登場人物の性格は基より、社会、生活環境等を考慮して、
汚しの程度を決めます。

この考えは、汚しの時だけでなく、
役の衣装を決める時にも大変重要です。

太平と又七は、台本の冒頭で二人のセリフのやりとりや、と書きで
どの程度着物を汚したら良いか見当がつきます。

$軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ--隠し砦の三悪人台本


セリフ
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道 (L) (移動)
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 炎熱ーボコボコに乾いた道を、汗と埃にまみれ、毒々しく云い
 争いながら歩いて行く半袴、小手脛当の男が二人(太平、又七)

太平「もっと離れて歩けっーーー死人臭くてやりきれねえ」
又七「いい加減にしろーーー死人臭えのはお前だーーーそれも
   みんな、お前のおかげじゃねえか」

 太平、顔をしかめて、自分の方から離れると、見せつけがましく
 唾を吐く。
                 (隠し砦の三悪人)台本より

汚しの方法は色々有ります、しょうゆ、紅茶、塩水に着けたり
軽石で擦ったります。また汚しに使用する材料、道具も大切です。
自動車用のワックス、泥絵具、ベンガラ、炭粉、砥の粉、軽石、紙ヤスリ
ハサミ、ライター軍手等々、多種多様です。

最初に着物に着癖を付けるために、何日か人が着て日常の作業を行います。
次は洗濯機に着物を入れ、しょうゆ水などを入れて、撹拌、脱水します。
脱水した着物を、野外に吊し、日光、風雨にさらします。
程良い所で本格的な汚し、手作業に移ります。

ステージ裏のコンクリート略に着物を広げ、1着ずつ、軽石で、
着物の衿元、袖口、前身頃を丹念に擦って行きます。
少しずつ、何回も何回も根気よく擦り続けます。
自分の体に着けて見て、汚れが不自然でないのか?
確かめながら作業を続けます。
軍手にワックスを塗り込み、その手で着物の衿首、袖口、
肩に擦る様にワックスを塗り付けます。
それと同時にベンガラ、泥絵具、炭粉を混ぜ合わせ、
汚れの色を調節します。
根気よく、丹念に、丁寧に作業を積み重ねて行きます。

汚れ具合が、自分の思い通りに進み、段々と完成に近ずいて来る、
着物を見ると、仕事の楽しさ、喜びが自然と身と心湧いて来ます。

この衣装を着た俳優たちが、黒沢監督の指導の基に役を演じる。
そして、日本映画芸術最高の作品が生み出される。
「汚しも最高の芸術品だ!」

私は黒沢組の新人スタッフですが、自分の仕事に自信と誇りを持って
参加することが出来ると確信をしました。

三人の衣装の汚れの確認をするために、
助監督と一緒に、黒沢組のスタッフルームに衣装を持って行きました。

「いいね」と一言。
そして
「しかし、臭いね。三船チロン、ボンサン、(千秋さんの字)釜さんは、
これ着て演じるだから、大変だな・・・」とニヤリと笑い、上機嫌でした。

                    衣装担当 池田誠
アメリカ映画の街ハリウッドはあまりに有名であります。
然しながらすべてのアメリカ映画がハリウッドで創られていると
思われ勝ちですが、決してそんな事はありません。
ある時期を境にして大移動が起こって居りました。

昭和40年頃には、その大部分が大西洋を隔てた
イベリア半島のスペインにあった事を知っている人は少ないだろうと思います。

昭和45年にアメリカのテッド・リッチモンド氏によって企画製作された
西部劇「レッドサン」の日本の侍の考証を含め小道具担当者として
三船敏郎氏に随行 日本人クルーの一員として参加しましたが
往年のアメリカ映画の大スターであるショーン・コネレー氏(007)や
カーク・ダグラス氏イタリアの大女優ジーナ・ロロブリジィダさん、
元より「レッドサン」出演者のアラン・ドロン氏チャールズ・ブロンソン氏監督の
テレスヤング氏等々とに角豪華な映画人が集まっていました。

首都マドリードから南に地中海に面したアンダルシア地方のアルメリアと云う街は
歩けば映画関係者に当たる程の映画人の街です。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、メキシコと云った
国々の映画人の家族がこぞってそこの街に集まっています。

「スタジオ・バカ(牛の意)」を中心に「ガディス」と云う郊外の街はずれには
アメリカ西部のオープンセットが建てられて居りそれぞれの作品がそこで撮影されています。

アルメリアからグラナダナをつなぐ鉄道の路線からも必要に応じ引込線を4K程継ぎ
古い蒸気機関車、まるで弁慶号の様な車両を走らせます。
勿論アメリカから運んできた機関車です。アンダルシア一帯が撮影所のようなものです。
ハリウッドがそのままスペインに移動していたのです。
数百頭に及ぶ馬や牛のキャンプもそちこちに準備されていました。

従来の日本映画にあった各社各様の撮影所や丸抱えした社員スタッフ、
六社協定と称する閉鎖的なものではなく、
アメリカをはじめとする世界の映画はそこで創られていたのです。

地中海を隔てたモロッコもその行動の範囲の中にあります。
スタッフの有り様も全く違っていました。

日本のように各パート毎に見習いからサード・セカンド・チーフと色々な経験を
重ねながら昇進し、やがてメインスタッフとしてタイトルに・・・なんて事はありません。

わかりやすく云えば助監督が監督に昇進する事はありません。
あくまでも助監督の職人なのです独立した立派な職業なのです。
撮影監督は明暗やアングルに就いて指示はしますがキャメラはのぞきません。
それは貸カメラ会社からキャメラと共に派遣されたオペレーターの仕事なのです。

日本ではカチンコを打つのは監督助手の見習い、
若しくはサードの仕事と相場は決まっていますが外国では編集監督下のカチンコ専門であり
スクリプターもまた編集監督下の職人であります。

現場の撮影そのものはあくまでも企画に基づく映画の作成であり
一種の取材行為そのものである事を知りました。
劇場で上映される一本の映画を本当に完成させるのは
何といっても長年の経験と実績を持つ選ばれた
編集監督(エディター)の力量に寄るものである事が驚きでありました。

昭和時代各地に存在した興業会社直営の映画館が巷からすっかり姿を消してしまいました。
夢の工房と云われた大きな撮影所もなくなりました。
全盛期に映画に携わったプロの映画俳優、女優、監督、キャメラマン、その他
各パートを担当したスタッフ達もその大半は他界され、残された映画人達も数少なくなりました。

全盛期に銀幕に登場していたスターも舞台劇に出演する事に活路を見つけ、
老いても何とか頑張っています。
とは云うもの、テレビと云う媒体で新にスターは誕生しています。
そしてテレビで生まれたスター達も昔懐かしい再放送で観る事ができます。

ビデオテープやDVD、ブルーレイと云う新しい技術の発展により、
自宅で何時でも映画が観られるような昨今は有難いことなのかも知れません。

軽井沢名画サロンを開設をしましたが、年内9回にわたり三船プロダクション製作(東宝配給)映画を
上映しましたが、全作品を通して見て下さった映画ファンはわずか4人でした。

単なる懐古趣味なのでしょうか?
映画文化が大きく変遷しています。

今や映画の文化が違う方向に導かれています。
従来の映画を創る現場から長年培われてきたシステムやスタイルが理論的なのか、
はたまた学問的なのか、とにかくアメリカ映画のシステムの都合の良い部分だけを取り入れてきた事により、
映画馬鹿と云われる様なプロの職人が消えてしまいました。

今や映像は素人でも簡単に創る事の出来る時代なんですね。
画面の中の上手、下手と云う基本すらも失われた映像の何と多いことか!

昔人達の娯楽であった講談や浪花節、動く写真にしてしまった活動写真もやがて
テレビと云う新しい文化に乗っ取られ、
今や携帯やパソコンと云う最新技術の餌食となってゆくのも世の流れかも知れませんが、
それによって日本人特有の心や情感が古いものとして失われてゆくのが残念でなりません。

三度屋美術骨董(小道具)
 佐藤 袈裟孝

世に天皇と呼ばれる人は多いが、真の天皇は少ない。
映画界の天皇は黒沢明監督であろう。
他には巨匠(稲垣 浩)、御大、名匠、名監督、狂人等々、渾名(あだな)、冠は様々である。
監督は、良くも、悪くも尊敬と畏敬の念をもって映画界に君臨していたものだ。

つい三十年位前までは。ところが昨今はどうであろう?
監督の存在が完全に消え失せてしまった?

宮崎某(なにがし)という女優に至っては、作品の中で私を
どう扱うの? どう演出するの? なぜ私を選んだの?・・・・・等々、
これを知っていたらこんな愚問を監督に浴びせないだろうし、
素材を妙を期待して撮影に臨むのが俳優の本分だ。

 映画、物作りには天皇はいらない!まして俳優が天皇気どりなどは、もっての外だ!
「黒沢の野郎、ぶっ殺してやる!!」
三船敏郎の若かりし頃の名台詞だと聞いている。

勿論、撮影中のことではないだろう。
その日その日の終了後に精も根も使い果たした挙げ句に三船が爆発したのであろう。
それ程までに、侍三船は俳優魂を持って撮影に臨んでいた。私も三船さんとはテレビ映画で
数十本お付き合いをさせてもらったが、台本は持たず、食事中にも共演者やスタッフにまで、
気遣いをみせて映画漬けになる人は、他にも類を見ない。
正に、映画の鑑だった。

そんな三船侍を熱くならせる位に昇華させた黒沢こそ天皇に値する天皇だったのではないだろうか?
 某局「南極大陸」の演出と制作会社は、黒沢と三船の爪の垢でも飲み込んでほしい。
木村拓哉に媚びた、あざとい脚本と演出、共演者は刺身の具ではないのだから・・・。

軽井沢三船映画サロンで三船敏郎の映画を観て、黒沢と三船の偉大さを改めて再認識させられた。

NPO法人時代劇振興協会
監督 宮越 澄