アメリカ映画の街ハリウッドはあまりに有名であります。
然しながらすべてのアメリカ映画がハリウッドで創られていると
思われ勝ちですが、決してそんな事はありません。
ある時期を境にして大移動が起こって居りました。

昭和40年頃には、その大部分が大西洋を隔てた
イベリア半島のスペインにあった事を知っている人は少ないだろうと思います。

昭和45年にアメリカのテッド・リッチモンド氏によって企画製作された
西部劇「レッドサン」の日本の侍の考証を含め小道具担当者として
三船敏郎氏に随行 日本人クルーの一員として参加しましたが
往年のアメリカ映画の大スターであるショーン・コネレー氏(007)や
カーク・ダグラス氏イタリアの大女優ジーナ・ロロブリジィダさん、
元より「レッドサン」出演者のアラン・ドロン氏チャールズ・ブロンソン氏監督の
テレスヤング氏等々とに角豪華な映画人が集まっていました。

首都マドリードから南に地中海に面したアンダルシア地方のアルメリアと云う街は
歩けば映画関係者に当たる程の映画人の街です。
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、メキシコと云った
国々の映画人の家族がこぞってそこの街に集まっています。

「スタジオ・バカ(牛の意)」を中心に「ガディス」と云う郊外の街はずれには
アメリカ西部のオープンセットが建てられて居りそれぞれの作品がそこで撮影されています。

アルメリアからグラナダナをつなぐ鉄道の路線からも必要に応じ引込線を4K程継ぎ
古い蒸気機関車、まるで弁慶号の様な車両を走らせます。
勿論アメリカから運んできた機関車です。アンダルシア一帯が撮影所のようなものです。
ハリウッドがそのままスペインに移動していたのです。
数百頭に及ぶ馬や牛のキャンプもそちこちに準備されていました。

従来の日本映画にあった各社各様の撮影所や丸抱えした社員スタッフ、
六社協定と称する閉鎖的なものではなく、
アメリカをはじめとする世界の映画はそこで創られていたのです。

地中海を隔てたモロッコもその行動の範囲の中にあります。
スタッフの有り様も全く違っていました。

日本のように各パート毎に見習いからサード・セカンド・チーフと色々な経験を
重ねながら昇進し、やがてメインスタッフとしてタイトルに・・・なんて事はありません。

わかりやすく云えば助監督が監督に昇進する事はありません。
あくまでも助監督の職人なのです独立した立派な職業なのです。
撮影監督は明暗やアングルに就いて指示はしますがキャメラはのぞきません。
それは貸カメラ会社からキャメラと共に派遣されたオペレーターの仕事なのです。

日本ではカチンコを打つのは監督助手の見習い、
若しくはサードの仕事と相場は決まっていますが外国では編集監督下のカチンコ専門であり
スクリプターもまた編集監督下の職人であります。

現場の撮影そのものはあくまでも企画に基づく映画の作成であり
一種の取材行為そのものである事を知りました。
劇場で上映される一本の映画を本当に完成させるのは
何といっても長年の経験と実績を持つ選ばれた
編集監督(エディター)の力量に寄るものである事が驚きでありました。