現代劇、時代劇をとわず其の時代風俗状景の中で祭りや縁日がとても重要な役目を持っています

大勢のエキストラが動員されさまざまな扮装をした人が右往,左往する様子は観客の目を映像の世界に引き込む大切な状景であり、現代の祭りや縁日にも引き継がれています。


物語の中でそんな状景のシーンのある場合美術部にとって其の力量が試される場面でもあります


世田谷の野沢通りに面して何の変哲もない一軒の仕舞屋がありました、

其の家は戦後の映画を陰で支える外部活動屋さんとして各映画会社の美術部にとって、切っても切れない縁のある「尾上の父さん」と呼ばれた露天商の

世話役の家でした、 二代目息子の栄一さんは奥さんと二人三脚で父さんの後を引き継ぎ映画の裏方として露天を仕切ってくれます、

時代、季節、場所、店舗数、などを電話で伝達するだけでおおよその準備をしてくれます、

美術部の描いた通の諸々のバランスの取れたお面屋,や風車、小間物,などなど、撮影現場に本隊が到着する前に飾り付け準備を整えてくれるのです、


三船プロ作品では三度屋美術工房の一員となって映像の中で活躍しております、  時には本物の香具師の方々が現場に参加出演してくれる事もありました。


平成19年栄一氏は逝去されましたが其の陰の仕事は永遠にフイルムの中に生き続ける事でしょう。


知られざる陰の活動屋さんのご冥福を何時までも祈ります。



   本編(映画)経験をさせる為「風林火山」に無償(ノーギャラ)で参加させていた私の弟,結樹が極小プロダクションの助監督の修行中であり、これを機会に彼にしか出来ない仕事を持たせたいとの思いもあって三船プロに呼び寄せ馬舎部代表の御子息史郎氏(現三船プロ社長)を補佐する事になりました。

助手には出身地軽井沢から同級生の気心の知れた仲間を呼び寄せ屋根裏部屋の住人となり二十四時間勤務が始まったのです、

毎朝寝わらの乾燥、餌のブレンドと大変な毎日です、真夜中に馬が糞を詰まらせ近隣の獣医さんを叩き起こし糞の掻き出しをしてもらうと云うハプニングが度々あったものです。


  製作予算を倹約するつもりで飼った筈の馬舎部は餌代、人件費、運搬費,(現場へ輸送する外注費)等で結局大幅の予算オーバーで京王乗馬会や孫さん達のお世話にならねばならぬと云う結果になりました。


  「五人の野武士」が終了した後五頭の馬は手放すことになり買い取り人の指示に従い私と弟は狛江にある場所迄運ぶ手筈が整いました、しかし指定された場所はなんと屠殺場でした。

一頭づつ手綱を取って連行することになりました、前夜には人参を差し入れ馬達は前足のつま先でトントンと地面を叩きもっとほしいと合図をくれます、最後の晩餐になりました。いよいよお別れの朝には弟の結樹は泣きながら馬を引き、三船社長はひっそりと裏口から何時までも見送ってくれた事を忘れる事ができません。


三船社長と私共兄弟の大切な思い出です。


三船プロダクションではテレビ映画「五人の野武士」の企画がとうり製作に取り掛かる準備に入ったのが映画「風林火山」の撮影中の頃だったと記憶しています。

三船社長がロケ先の福島県相馬市原の町で野馬追いの関係者との話の中で五頭の馬を買いたいとの申し入れをしたものと思われます。


東京成城九丁目にある三船スタジオ(正確にはトリッセンスタジオ)のオープンセットの広場に五頭の馬を収容する馬舎が大道具の吉田良雄氏の元で建設されました。

馬舎の総責任者は当時成城大学馬術部の主将をしていたご長男の史郎氏で馬術部部員の学生達が馬の世話を務めると云う三船社長のプランでした。


「風林火山」の撮影も追い込み撮影の最中でありましたので風林火山担当の私共の関与する事ではありませんでした。

次作品「赤毛」の準備中であったかも知れません。


やがて風林火山の撮影も終了し後整理をしている頃には「五人の野武士」スタッフが外部から雇用されて集まって来ます、馬五頭が福島県原の町から運ばれて来ました。

三船社長を中心に馬舎開きが行われ大学生数人が二十四時間五頭の馬と共に馬舎の屋根裏に泊まり込み馬の世話をすることになったのです。

馬の名前も五人の野武士の役名が付けられ万端整ったかにみえた馬舎部でありましたが、ある日三船社長が小道具室に入ってこられ、馬舎の事で相談したいとの事、内容は馬の世話をしている学生達が試験日が近ずいて来たので全員が馬舎の面倒をみる事が出来ない状況が発生し、出来れば小道具室で担当できないか?との相談でした。     (続く)

 時代劇映画には必ず馬が登場します。

馬の手配や管轄は会社によって違う場合もありますが大方は美術小道具の担当になる事が多いのです、


東京で撮影する場合 ,東宝系は先ず草下虎之助さん率いる京王乗馬会の面々、新東宝では井上乗馬会、京都では岸本乗馬会があります、相馬の野馬追いの一団もあります、


各社が多用した静岡県御殿場ロケの際には長田孫作さん率いる一団が沢山の作品に携わって居りました。

「孫さん」「孫さん」と慕われロケ現場の使用許可の手配は元よりロケ現場での炊き出しの豚汁はどれほどスタッフ、キャスト、に喜ばれたかしれません、数多くの黒沢映画に貢献されました、

スケジュール上の無理難題にも嫌な顔一つせず応じてくれる孫さんは本物の映画人であったと尊敬しています。


唯一度「けさちゃん、悔しいよ、黒沢監督に裏切られたよ、悲しいね」そんな事を言った事が思いだされます、

 それは「影武者,乱」の撮影の際に孫さんの一団が一切外されてしまった事えの苦言だったのでしょうか。

本当の事は知る術はありませんが。


東宝歌舞伎全盛の頃日比谷にある宝塚劇場の裏に仮馬舎を建て泊まりこんで一か月の公演中馬の世話をし、舞台上に馬を登場させたのも孫さんの一団とそれを継承した草下さん、小川さんの京王乗馬会である事を知っている人はもうほとんど逝かれてしまいました。


 新東宝映画の美術監督,鳥井塚誠一氏のセットデザインは他に追従を許さぬ程の力量を持ち特に背景を含む八百屋のセンスに於いて抜群のセンスで職人スタッフに仕事を指導していました。


現在の時代劇専門チャンネルで再放送されている時代劇のオープンセット,通称,生田オープンと言われる読売ランドに隣接された江戸の街、や武家屋敷,門構え等など

数多くの作品の舞台となっていますが、これは鳥井塚氏の作品であります。 


そして彼の得意とする技こそ少ない予算の中で最高の舞台を造り上げる名人でありました。

壁一枚取り替えるだけで全く別の物に模様が替ってしまう飾り替えのテクニック、背景の色彩や構図を一寸替えただけで別の場所に変てしまう技術は驚くばかりでした。


背景を描く職人スタッフは撮影現場に立ち会う事はほとんどありません。  撮影が終了すると徹夜で仕上げた背景も消しゴムで消すかの如く自分で消し,洗いそして又次の背景を描くと云う陰の陰のスタッフなのであります。


どんな名画を描いたとて数日の内に消えさる運命である事に時には爆発するのでしょう大酒呑んで大騒ぎになる連中も少なくありませんでした。

  映画美術と言っても色々な分野があります

セットの設計を司る美術監督(デザイナー)、その仕事を補佐する助手

図面に基ずきセットを建上げる大道具の棟りょう、その下で働く助手(大工)の人達、張りや(経じ師)、塗や、背景(絵師)等等

出来上がったセットに飾り付けをする小道具装飾、劇中で必要な小道具係り、

衣装部方も美術の範疇に入ります。


今回は余リ表にでてくる事の無いしかもとても大切な仕事をしている大道具の中の背景を担当する人達を紹介することにします。

撮影所の中のセットを造る空間をステージと言っていますが,何物も置かれていない空間の壁面四方の面にシートがぶら下がっています、これをホリゾントと言います、このホリゾントは一種のキャンバスであり、この存在によって窓外の風景であったり森の向こうの空であったり、遠景を造る大切な部分になります、

この仕事をこなすためには大変難しい技術が必要の為大抵美術学校出身で画家をあきらめるか、画家を続ける為にこの仕事を選ぶ人が多いようでした。


スタジオの中独特の臭いはこのホリゾントに吹きつける膠で溶いた泥絵具のせいです。夏場になりますと膠が腐食し発酵するためとても臭いものです

背景さんの仕事は先ず夜半になってから始まります、装飾係りと共に夜なべ

仕事です,通称八百屋(ヤオヤ)と言われる技術は其の最たるものですが奥行

きを出す為に一定の場所から突然地面が斜めに立ち上がりホリゾントに向かって登ってゆきます、その変形の中パース技術を使って奥行きを出すのです、

ちなみに八百屋とは店先に並べられた野菜箱が斜めに立ち上がってお客の眼に野菜が見える様に展示した状態を指したものなのです。  (続く)


   映画「ゆずり葉の頃」

           岡本みねこ監督作品


                           佐藤 袈裟孝


軽井沢ロケーション撮影に裏方として数十年振りに参加しました

昔に戻れた一週間でした。

お陰様で大勢の皆さまの参加を頂いて無事終了しました、

東京での撮影は11月3日でクランクアップの予定です。


来春の封切が待たれます。

ご出演頂ました皆皆さまありがとうございました。

    28回  黒部の太陽

               立山連峰ロケ  池田誠(衣装担当)

 立山連峰ロケは夏季、冬季と二度に渡って行われた。

外から眺める黒部峡谷の夏の風景は絶景ですが、峡谷の奥深く入って行くと正に秘境です。


 工事作業員の転落事故を撮影するために、黒部ダム建設の資材を運ぶのにトンネルが必要になり、トンネル工事に使用する機材、ブルドーザーを分解して運ぶのに断崖を切りくづして造った、人が一人やっと歩ける小道を50Kの人形を背負って注意深く一歩一歩進んで行った。


 断崖から人形を投げ様とした時,吸いこまれそうな深い谷底から、、、、、

171名の殉教者の叫び声が聞こえた。   「危ないぞ・・」 「気をつけろ・・」

「頑張れ・・」と仲間同志の掛け声か、、、、、我々スタッフへの励ましか。

叫び声は次第に呻き声に変わって行った。

私は一瞬頭がクラッとしてつんのめり谷に転落しそうになった。

「池ちゃん  本番行くよ・・」  助監督の声に我に返った。 両脚に力を入れ踏みとどまった。  そして心の中で「供養だから」「皆の供養だから」と唱え、気持ちを静めた。 「投げて・・」の声で祈りながら50Kの人形を力一杯谷底めがけて投げ込んだ。 人形は途中崖に当たりワンバウンドして崖片と一緒に谷底深く落ちて行った。


 金宇キャメラマンは半身谷に乗り出して撮影しています。カメラの助手は金宇

の腰のバンドをしっかり握り、歯を食いしばって必死に体を支えています。

二人の力のバランスが崩れたら、、、、二人共谷底へ一直線に落下する状態での撮影です。  場所を四か所変えて危険な撮影を続けます。


 山の日没は早く、三時には山を降ります。  来た小道を崖づたいに、 昇りより降りの方が大変危険です。  昼間の撮影の疲れも手伝って両脚はガタガタです。 力を入れ様にも力が入らないのです。

下山した時には太陽は西に沈み村の明りが点々と燈り静かな夕刻の田園風景です。

    第27回 三国連太郎さんを偲んで

                  池田 誠 (衣装担当)


  私が三国連太郎さんと一緒に仕事をさせていただいたのは1970年沢島忠監督作品「新撰組」の撮影でした。

  三国さんの事は新聞 雑誌 テレビ等や諸先輩から色々と見たり 聞いたりしてある程度の予想は着きますが、、、、、それだけに一度一緒に仕事をしてみたい、俳優さんの一人でした。

  稲垣浩監督が東宝で1952年「戦国無頼」を撮る事に決まっていた。

すると突然、三国が来て速見十太郎の役は僕がやりますと立候補してきた。

通常映画界では考えられない事です。一俳優が直接監督に作品の役をお願いに行く事はあり得ないのです。

  怪優、奇人等と称され,あくの強さと徹底した役作り、 30歳で老人を演じた時、 自ら歯を10本も抜いた話等など、 枚挙に暇がない。


  「新撰組」芹沢鴨の役で出演することになり、 三船プロで衣装合わせを行う。   三国さんの足が大きくサイズに合った黒足袋が街中の足袋店を探しても見つからず、撮影の当日、三国さんに「白足袋で行きますか、 それとも黒く染めましょうか?」と聞くと 「いいよ、いいよ、素足で、芹沢鴨も素足だったかも」と軽い駄洒落を残して撮影に向かった。


  夜間のオープン撮影で寒い日等,草鞋から半分以上出ている爪先を見る毎に冷たいだろうと気になって仕方がありません。  三国さんは冷たさを感じる様子もなく  芹沢鴨になりきって豪快に演技をしていました。


  ある日突然、連太郎と云う男から衣装会社の事務所に電話がかかってきました。  電話機の向こうから大きな声で「池ちゃん、連太郎です、、、、」と慣れなれしく話すので「連太郎?私はそんな人知りませんよ」と素っ気なく返事をする。  「連太郎です、、、連太郎です」  「連太郎、連太郎と言われても、知らないと云ったら知りません」と半ば自笑気味に話す。  「連太郎です、、、その三国です、 三国連太郎です」と小さな声に変わる。  私は三国と聞いて我に帰り、今度は緊張して「あ、、あの三国さんですか、、、、大変失礼しました。 新撰組でお世話になりました、池ちゃんです」



  話の内容はテレビドラマに出演することになりテレビ局で衣装合わせに行ったところ自分に合うサイズの軍服が無いので池ちゃんの会社にあるか捜してほしいと云う依頼でした。

又、 こんな話があります。  息子の名前に自分が映画界で最も尊敬、信頼する二人の監督から一字頂いた。  佐藤浩市の「浩」は稲垣浩監督の浩を、そして「市」は市川昆監督の市を、  愛する息子の将来を考えた親心だったのでしょう。       そして息子佐藤浩市は父三国連太郎と映画で共演出来る迄に成長し、  一流の俳優になった。


  私の知っている三国連太郎さんは童の様に汚れの無い、純粋な心を持った素晴らしい俳優さんでした。


軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ-

                                合掌


  

 第26回 NPO法人

        時代劇振興協会の実績と未来

                            宮越  澄 監督


  平成19年6月19日にスタートした我が時代劇振興協会は、今年6月20日には、丸7年目に突入します。


時代劇の復活と伝統文化の継承を旗印に立ち上げたのだが、その効果と実績は、歯がゆいばかりで、名前倒れしそうな法人に汲々としている。

  心ある時代劇ファンの人よ、 救いの手を差し伸べてください、と云う心境である。  時代劇に関心のある若者のなんと少ない事か/  中年以上の人達ばかりでは、時代劇文化は廃れるし、存続しない。


  時代劇は仮装行列の一種で、芝居では無いと思っている俳優の脳みそをそっくり入れ替えたい心境である。

又、 昨今の若者は、辛抱が全くできない、 基本的な修練を積む期間に耐えられない。  すぐにでも出演と云う結果ばかり追い求めて、自分磨きに飽き飽きとして我慢できないのだ。


  あの名女形の坂東玉三郎さん(人間国宝)は、「技術を伝えられても、道を伝えにくい時代になった」と、話しておられたが、 本当に芸一筋、 芝居一筋に精進して時代劇俳優になろうと云う大望をもった若者の出現を待つ時代劇老人、 指導者になってしまった己が情け無い。


  以下、 当協会の活動概略を述べてみよう。

平成20年2月 旗揚げ公演 「たらちね長屋騒動記」

平成20年12月 第2回定期公演 「長屋の仇討と幽霊騒動」

平成22年4月  第3回特別記念公演 「瞼の母」

平成23年10月 第4回定期公演  「五弁の椿」

そして20年から毎年8月~9月上旬にかけて、 恒例合宿を3泊4日で決行。

毎土曜17時30分より20時迄、

俳優養成訓練を行っている。


  未来の時代劇俳優を目指す人、 当協会をサポートして支援応援団になろうと云う人、  是非ご連絡ください。

 MAiL_ info@npo-jidaigeki.com   迄

  お待ち申しております。