「太平洋の地獄」其の六 佐藤袈裟孝(小道具担当)

           「私だけの撮影所物語」より


 ある日沖合約30マイルの海上で筏上の撮影を終え、筆者の乗った小舟は筏を2艘引き帰港します。  他のスタッフはジェットボートやその他の船で帰港しますが通常の船は時間にして30分~1時間位で帰る事が出来ます。

筆者の乗った船は筏2艘の重量で5時間位かかります。

小船の船長さんは普段はこの小船で港のパイロットの仕事をしている島一番

船乗りです。  御承知の方も居られましょうが、パイロットとは大船が入港する時に浅瀬に乗り上げ無いように海路案内をする港の主の様な人です。


 「サトさん、港が騒いでいる」 何の事かちっとも解りません、疲れ果てて船縁で居眠りしていた筆者は何も感じません、  只ただエンジンのポンポンと鳴る音としぶきを上げる母船と筏の波音が上手い具合に眠気を誘っているだけでした。   「ボー」 「ボー」      遠くに汽笛の音が聞こえてきました

「今時分、なんだろうね」

「サトさん、エンジンが鳴っているよ」

「何か事故でも起きたんじゃないだろうか?

「サトさん、船動き出したよ」

「えっ」

寝ぼけ眼の筆者はとたんに眼が覚めましたが、あわてても、海の上、どうにもなりません。     約2時間もすれば港に到着するのだからと、思いながらも

何か落ち着かない永い永い2時間余りでした。


 小舟の着く桟橋で筆者と船長さんを待っていてくれたのは、日本人クルーのプロデュウサーZ氏と助監督のO氏でした。夕食もとらずに筆者達を待っていたのです。

「御苦労さん、船長さん、明日もよろしく」

「4時半出発でお願いします、」

「はい」

 港は何事もなかった様に見え、自分が気をもんだ2時間余りは一体何だったんだろうと腹が立ってきました。   シャワーを浴び、食堂に行った頃には既に他のスタッフは眠りに着いたとみえ、テーブルには3人の食事が並べられ、台湾人パーサーや食堂担当者の姿も無く,さみしい夕食になりました。

Z氏とO氏と筆者、無言の夕食でした。

「何かあったのですか?」

やっと声に出しました。

「うん、 この船長さんと三船さんがプロデューサーと一寸もめたんだ」

「契約上の問題で、中間の支払いが遅れていて、船員の給料が払えない状態でプロデューサーの云い訳に腹を立てた船長と三船さんが撮影を中止して船を帰すと云いだし、船を桟橋から出航させてしまったんだ。

「プロダクション側が謝罪をして何とかおさまったんだけれど、そのまま船が出航したら君は、パラオに一人残されたって訳よ。」

「台湾人の乗組員は半分は帰国させるらしいから、、、、」

 そんな事件があった翌朝、まだ眠りからさめやらぬスタッフ達をよそに、筆者は4時半、再び小船の船長さんと筏を曳いて真暗闇の海に出かけるのでありました。

    「太平洋の地獄」 其の五 佐藤袈裟孝(小道具担当)

           「私だけの撮影所のもがたり」より

 12月も押し迫り間もなく撮影スタッフの本隊が日本から、そしてアメリカから到着することになります。、スタッフ達、機材の到着が待たれます。  が、

しかし、島には数十名が宿泊出来る施設がありません。  電気も自家発電

もしくは一家に一灯程度の電力しかありません。

 ある日、プロジューサーを通じて撮影機材、車輛、宿泊施設がコロール島の

港に入って来ると云う知らせが届きました。  私共先発隊は港に向かいました。  港には桟橋をはるかにはみ出してしまう程大きな貸客船が真白い巨体

を横たえ積み荷を降ろしております。  中国(台湾?) 国籍の一万トン「オリエンタルヒーロー」号であります。   乗組員約90名の台湾人のみなさんが私共を出迎えてくれます、船長以下パーサーたちを次々と紹介してくれました。

それにしても一万トンの貸客船を撮影終了迄借りきってしまうアメリカ映画の

スケールの大きさにびっくりいたしました。  貸客船の半年にも及ぶレンタル料だけでも日本映画の大作が三本位は作れそうな気がしました。

 数日後には、日米合流したスタッフの本隊がパラオ空港に到着しました。

筆者は、三船氏の運転する島の中で一番と云う高級車輛日本のマツダで出迎えに行ったのでありますが,ごくわずかな顔見知りを除き、私を現地のパラオ人と勘違いをされ、片言の英語で挨拶をされたのであります、

現地の人達の中に溶け込んでいたのかも知れません、

 スタッフ全員の顔合わせ、島民の有力者、島民のローカルスタッフの歓迎会

は船上に於いてのクリスマス・パーテーとなりました。

 おどけた扮装でパーテーを盛り上げる三船氏、島の人達がお祝い時に必ず食する最高の御馳走「いなり寿司」手に入りにくい日本からの輸入品の油揚げ

は高級品なのだそうです。

 

 昭和43年1月1日、日本本土では正月です。家族揃って新年を祝っている頃です。   南洋の撮影隊は朝早くから宿舎オリエンタルヒーロー号を下船

し、ロケバスならぬ米軍払い下げの上陸用舟艇に乗り組み,現場に決定した

小島へと向かいます。

愈々リハーサルが始まります。 クランクインです。

 島の中程のジャングルの中、浜辺では海水を吸い上げる大型ポンプがうなりをあげます。 塩をたっぷり含んだスコールがジャングルの奥深く降り注ぎます

粘土質の地面はたっぷり水を含み膝の辺り迄潜りそうな状態です。

日本海軍第二種戦闘服シャツに身を包だ三船敏郎氏が手作りの木刀を片手にジャングルの中を右に左にギラギラとした眼で獲物を探す狼の様な形相で走りまわります。

カメラの乗った移動車(トロッコ)がグリップ(大道具、特機を兼ねた仕事をする裏方)の手によって追いかけます、   別のカメラが木陰で、三船氏の正面の

顔をとらえます。

 広い視野で全体をとらえる第一カメラ、100名を超えるスタッフ達が息を止め其の瞬間を見護ります。

撮影監督のコンラット・ホール氏が光と陰、明暗を丹念にチェックします。

カメラオペレーターがファインダーから眼を離し、監督のジョン・ブァマン氏に合図を送ります。それを受けて日本人クルーの助監督が大声で叫びます。

「本番・本番行きます」   緊張が高まり静まりかえります。

「レイン・雨」    ポンプが遠くで唸りを上げ、スコールの塩水が一帯に降り始めました。   

「レディ・シューリング・」  数台のカメラのスイッチが同時に入ります。

編集マン助手の持つ大きなカチンコがカメラの前で「ガチン」と音を立てます。

 監督の声「アクション」

「太平洋の地獄」の最初の映像がフィルムに刻みこまれた瞬間であります。

 「キリン・(killing)殺せ・」

スコールが止まり、カメラのスイッチも切られ何事も無かった様な100メートル

走のゴールテープを切った時の様な空気が流れ、オペレーターがファインダーから眼を外し其の左手の親指が振られたとたんに監督が大声を上げます。

 「エクセレン・ ビュウテフル・」  助監督も叫びます。

 「ok・ ok・」

息を止め其の状景に集中していたスタッフ達も大きく深呼吸し,誰からともなく拍手がわき上がり其の音ははるか離れた浜辺にもジャングルの木ぎを振動させ伝える程大きく鳴り渡りました。

わずか数分、いや数十秒のこの緊張がやがて800回(一本の映画の平均カット数)にも及ぶ積み重なり、やがて一本の映画の完成に繋がってゆくのです。

最後の一カットは何時,何処で終了するのか、気の遠くなる先の事に思えます。

多分本土では桜の季節も終わり,梅雨も明ける頃なのかなあ、、、、、、、


    25回 「太平洋の地獄」 其の四

             佐藤袈裟孝 (小道具担当) 「私だけの撮影所物語」


 アメリカ側のリー、マービン氏は、何やら探しております.流木です。  波に洗われすべすべになったオブジェとも思える流木をローカルスタッフに集めさせ,駄目出しをしています。気に入った流木がみつからないらしく片時も手ばなさないビール(サンミゲール)瓶を飲みながら真っ赤な顔をしています。  生活に必要な道具は何一つ用意されていません.。 只只流木のみ。   

そして12月も中旬になりました。

リハーサルも佳境に入ります。  現場で次々に作られた道具類を実際に手にしながらリハーサル演技に注文が付けらてゆきます。

リ―、マービン氏がこだわった流木もようやく決まり、砂浜の一か所に設置されました。  なんと其の流木は裸身の女性が横たわっているようなオブジェではありませんか。

 無人島に一人離れた時の日本人的発想と、アメリカ人発想のあまりの違いに驚いたのであります。  

三船も負けてはいません。 浜辺に枯山水の盆石の情景を、京都の竜安寺の庭をつくってやろうと云うことになりました。

私の役目は波を画く道具を作る事。これは見た事がありません。どうしたものか?同行の日本人スタッフも知りません。 よし、日本人的オブジェで作ってみようと云う事で、竹を組み合わせた熊手とスコップの合体した様な道具を作りあげました。  砂浜に波の渦が何とか描く事も出来、監督も大変に気に入った様子でそんなシーンを取り入れる事になりました。

リハーサルの間履いていた三船氏の軍靴もすっかり古びて所どころ塩を吹き年季が入ってきました。

真新しい軍服は布地が上等過ぎたため毎日叩き洗濯をしても塩水に漬けてもなかなか古い感じが出ません。  結局ヤスリを使って擦れを起こし破れは自然を待つ事にします。  帽子も同じく、 困った事にツバの中身に(芯)ビニール板が入っていてなかなか型が崩れません。  本物だったらボール紙だから一晩水に漬けてもみほぐせばよれよれになるものを、、、、、、。 


            

     太平洋の地獄 其の三 佐藤袈裟孝(小道具担当)

                「私だけの撮影所物語」


 シナリオの中で唯一指摘されていたのが水の確保、雨水を桶を使って軍隊シートで作った水溜まりに集めると云う事 、遅れて漂着した米軍パイロットが生き延びる為に先着日本人の集めた水を求め水取り合戦になることがこのシナリオのスタートでした。

 美術監督の描く無人島の生活空間は、まるで縄文時代の住居のようで岩肌のある洞に木の葉を敷き詰め貴重な持ち物である双眼鏡は洞の奥のとがった岩にぶら下げ塩水に洗われた靴は既にボロボロになっていると云う情景のコンテが出来上がってゆきます。 水溜まりに使うシートにはジャングル~から採集した大きな葉で,蓋がしてあり、日の光を受けた雫が水たまりの袋から流れ落ち、石塊で囲われた囲炉には、大きな貝殻の鍋が掛けられ、拾い集められたと思しき枯れ枝が積み上げられている.。   何故かぐるぐる巻きされたロープが枯れ枝の上に重ね置かれた絵コンテの中の情景に監督のジョン,ブァマン氏も満足気であり、舞台になるべき無人島の浜辺も決定してゆきます。


 さて,愈々絵コンテを実際の物にするために行動を起こさねばなりません。

現地ローカルスタッフを酷使して、ロープを作る蔦を集め皮を剥ぎ水に漬けます。       鍋にする大きな貝を探さなければなりません。

パラオ近海にはシャコ貝(ビーナス誕生の絵にある貝)が沢山あり、大きな物は直径一メートルを超えるものもあり、とにかく大、中、小取り交ぜて採集することにします。  水溜まりの蓋にする大きな葉っぱは、パラオ島の主食であるタロイモの葉を採集  スペアー用には大きさを限定し、その大きさの物は印をつけ何時でも集められる状況にしておきます。

双眼鏡は片目のレンズを取り外した上、海水に漬け潮風で風化させます。

外したレンズは,火を起こすための道具として使うつもりです。

これは全く私の独断で決めました。子供の頃レンズを使って日光を集光し火を起こした遊び心が役に立ちます。     手頃な大きさの石を探し上部をたいらに削ります。    唯一の持ち道具であるジャックナイフを研ぐ砥石にします。     魚を漁る為の竿、浮き、網、  うなぎを漁る時に使う ドのようなもの、、石を使った掛け矢、 竹を使った弓矢、 竹を使った槍、 木の枝を使った木刀、 等等、

三船氏との意見交換で日本人の持つ心の部分が一致してきました。

子供の頃の遊び道具が次々と頭に浮かんでまいります。

チャンバラごっこ、 兵隊ごっこ、 学校帰りの山の中に仲間を集めて秘密に作った竪穴住居のような隠れ家、 がき大将だった頃の遊びが役に立つことがあるのですね。



     「太平洋の地獄」 其の二佐藤袈裟孝(小道具担当)

              「私だけの撮影所物語」より


脚本は5年も前から準備されたものだったらしいのですが、英語版の準備があるだけで、とにかく三船氏との一対一の打ち合わせが何日もつずき、デザイン画を三船氏が描き,必要な装備類、衣装、靴, ひととうりの物の物を発注することになりました。通常スペアー品は一つ持っていれば間に合うものですが、今回はロケ地が南洋諸島のパラオ島であると云う事で飛行便を使ってもグアム島~から週一便とあっては万が一の場合追加するの事も不可能です。

 

 撮影完了するまでの不慮の事態にも対応出来る為には少なく共五~七のスペアーを用意するのが安全と考えました。

二週間の準備もあわただしく、まだ技術畑のスタッフも決まらないままに11月下旬には三船氏,助監督のM氏、美術監督のY氏、大道具のS氏、制作補のZ氏、と筆者、六人の先発隊が、空路グアム島に向かいます。

グアム島では初めてアメリカ側先発スタッフと落ち合い、合流し、週一便の飛行機を待つ間、南洋群島へのビザの申請、日米交流パーテーとあわただしく数日を過ごし、愈々現地パラオ島へ向かったのであります。


 本隊は日米共に十二月下旬に到着の予定で準備をした道具類はすべて船便にて本隊到着迄に現地入りすることになっておりました。

手持ちの道具は軍用シート二枚、衣装二組、軍用靴二足、ジャックナイフ二本、双眼鏡二個、身の回りにあってしかも漂流した時に身についていた物と言う想定だった為、それが小道具のすべてだったのです。  なんと気楽な仕事になったものだと心の中では安心しておりました。


 現地で集められたローカルスタッフ(パラオ住人)数人が其々助手として手伝ってくれることになり、私にも助手ショーリー氏がついてくれます。

アメリカ側の小道具担当はトニー..ウェイド氏、四人体制で小道具部がスタートすることになりました。

ロケーションハンティングを兼ねたリハーサルが始まります。

監督のジョン.ブアーマン氏(英国人)、キャメラマンのカニ―。ホール氏(タヒチ島在住)、俳優のリー、マービン氏、三船氏、助監督M氏、制作補Z氏、スタッフ全員が現地調達の船でロケ現場探しの島を次々と回って現場を決めてゆきます

 現場を決めながら無人島で人が生きるため何が必要か、それをどうやって映像の中で評現出来るのかということが私に与えられた最大の仕事でありました。



    「太平洋の地獄」 其の一 (佐藤袈裟孝)

                      「私だけの撮影所物語」より


昭和42年の事準備用スタッフルームが設置されていたのは小田急線成城学園前駅から京王線仙川駅との中間に位置する元石原裕次郎さんのボート小屋のあった林間に新築されたばかりの「トリッセンエンタプライス社}日本語に訳すとトリッ=三、セン=船、つまり三船プロダクションスタジオでありました。

  Yデザイナー(美術監督)と三船プロダクション支配人F氏との面談で、ようやく本編についての説明で内容が明らかになったのです。

「何処の作品ですか?」つまり制作会社は?「アメリカのABC社の予定」だという事。    アメリカではプロヂューサーシステムと言ってプロヂューサーが企画立案し、資金を集め俳優キャスティングをし、スタッフを集め、出来上がった作品を配給会社に売り込む、つまり好条件を掲示した処の作品として劇場公開すると云う日本ではとても考えられないシステムなのです。  だから目下の処「ABC社」と言う返答だったのです。

 

 プロデューサーは後日日本に来られるとの事でとりあえず三船プロが日本人スタッフの契約を代行すると云うことです。

 映画の内容は日本海軍軍人とアメリカ空軍パイロットの敵意と友情の物語。

出演者はこの二人だけで、舞台は南海の孤島、無人島なので脇役もエキストラも一切登場しない。

珍しい発想であり、誰も体験したことのないものだが、セットがあると云う。

廃墟と化した日本軍の野戦病院跡、これは美術大道具と装飾担当者の分野であるから、特別な小道具は何もいらないが、無人島に漂流した日本海軍軍人一人の面倒を見てくれれば良いからと言う条件です。


 「アメリカ空軍パイロットの事はどうするのですか?」との質問に「それはアメリカ側のスタッフの仕事だから関係無い」「えっ;」

つまり日本軍人側は日本人スタッフが、 アメリカ軍人側はアメリカ人スタッフが担当すると云う合作ではないにしろ日米対抗戦と言うことになりはしないだろうかと、不安が脳裏をかすめ、憧れのアメリカ映画に携わるスタッフとの戦いに参加するとは身の程知らずではないだろうかと迷ってしまったのであります。


 コマーシャル用写真を撮っておられたこの映画の主人公を演ずる三船敏郎氏との面接になりました。

「小道具担当の佐藤袈裟孝です。」

「三船です。よろしく頼みます。」

「はい。よろしくお願いします。」 しまった;誠に単純朴訥な応答であり,往時の大スター雲上のミスター映画とも云われる三船敏郎氏の面前に立つ筆者は、いとも簡単に即答してしまいました。

     24回  追悼 三国連太郎氏と

                 大滝秀治氏 宮越澄(監督)


4月14日に三国連太郎さんが逝去された。「怪優」「名優」と呼ばれた一人で昨年12月に亡くなられた大滝秀治さんも「怪優」「名脇役」の一人として並び称される。  陽の三船敏郎に対して陰の三国、大滝、と評することもある。

「注目を引くためならなんでもやる、自己中心のとんでもない奴。  と、ライバル俳優は悪口を叩たいたらしいが、「異母兄弟」では老け役の為に前歯を抜いたり,ある作品では土を食べて迄銅山の害毒を表現したりと、役作りの為にはどんな事でもやってのけた怪優であったようです。


大滝さんも、老警官の役を演ずる為にある本職警察官にまとわりついて,貴方の制服をくださいと何度となく懇願してついに制服を頂いたと云うエピソードもある、一種の「怪優」であった。


共通点を列挙すれば,大きな目を武器に?不気味さと紙一重の冷やかさ、不条理な世間への反抗心をつのらせたタイプ(批評家河原畑、寧氏)の俳優である。  絶えず本番、役柄が自分の分身、芸域の広さ, 声量の幅, 高低の音域、短い場面でも圧倒的な存在感と重厚な演技、いずれをとっても一流人と言えよう。


後輩の俳優らしい俳優が育っていない映像業界では、二度とお目にかかれない名優の二人が逝ってしまった。


三国連太郎氏の主な出演作、

「稲妻草紙」 稲垣 浩、監督

「本日休診」 渋谷 実、監督

「切腹」    小林 正樹監督

「飢餓海峡」 内田 吐夢監督

「戦争と人間」山本 薩夫監督

「神々の深き欲望」 「復讐するは我にあり」 今村 昌平監督

「利休」 「豪姫」  勅使河原 宏監督

「息子」 山田 洋次 監督 等と22作続いた「釣りバカ日誌」のス―さんが特筆されよう。

  残念というしかない、   御冥福を祈るばかりです。      合掌

      黒部の太陽

                破砕帯  其の二


                    第23回  (池田誠 衣装担当)


私が辰巳柳太郎の吹き替えを助監督から頼まれたのは、撮影当日の朝だった。

なんでも予定していた大部屋の俳優が泳げないというので、それに高齢なため、何か起きた時に問題だと、若い私におはちが回って来た。    私は辰巳さんの吹き替えならと軽い気持ちで引き受ける。    辰巳さんの衣装を身につけ、ヘルメットを被ると立派な辰巳柳太郎が出来上がる。      石原、玉川に仰向けに抱きかかえられ,水勢から逃げるテストを5回ばかり行い、本番になる。  熊井監督の「用意;」の声と同時に石原らの手で仰向けに担ぎあげられる。  仰向けなので決壊する正面の大きな岩壁が真正面に見える。  あの岩壁が水圧で破れるのかと思っていると、   「スタート;」の声で岩壁が中央から破れ、 泥水や石が凄い勢いで噴き出す。

担がれて何歩進んだろうか、、、、、、、突然水の中に放り出された。    監督の「カット;」の声がかかり落されたと思った。    それにしても、乱暴な終わり方だなと、水から体を起そうと踠いていると、   ドッドッ―ッと大量の泥水と石が怒濤のごとく襲い流される。   泥水の激流の中で木の葉の様に体が舞う。


軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ--黒部の太陽

 私は流され体を回転しながら、それでも何かに掴まろうと必死にもがきつづけた。  すると指先に何か触れた。   それは幸運にも一本の杭だった。   急ぎ杭にしがみついた。   このまま息を止めてジッと我慢していれば泥水はタンクの水がなくなれば引くと考えた。

不思議に冷静でいられた。思ったとうりしばらくして、頭のてっぺんから泥水が引いて行くのを感じた。      泥水が完全に引き、トンネル内を見ると頭大の石があちこちごろごろ転がっている

この石が頭に当たっていたらと思うとゾッとして全身鳥肌が立った。


トンネルのセット最後方50メートルも流されていました。  トンネルの先方では「裕ちゃん:」、「三船さん:」、「皆大丈夫か:」「頑張れ;」  と甲高い叫び声が暗いトンネル内に飛び交っていた。

そんな声を背に私は一人セット後方から外に出た。

泥水で濡れた体に夜風が爽やかです。   夜空を見上げると満天の星がきらきら輝き大変美しかった。


 翌朝 三船がすごい剣幕で「熊井はどこだ: 熊井はどこだ;」 と熊谷組の敷地内を探しまわっている。

当の熊谷監督は寮の前で煙草をのんびり吸っていた。

三船が現れると恐れをなして尻を逆さに飛んで逃げた。   其の逃げる様が滑稽なので皆の笑いを誘った。   三船の怒りの原因は昨夜、撮影現場で起きた出来事だった。

熊谷監督が記者に原因を聞かれ「事故だ」と言った事に始まり。    三船は事故では無い手違いだと

言う。  もしこれが事故だったら、警察の調査が入り、   熊谷組に大変な迷惑を掛ける事になる。

熊谷組の土木技術は国内は元より世界的にも広く認められている。

事故と言う事になったらば、今までの信頼を失い熊谷組にとって大きな損失になる。


 三船は報道各社を始め、熊谷組の幹部、各関係に撮影状況を説明し,事故では無いと理解を求めて一日中駆けずり回った。

二日後、熊谷組内のトンネルセットでは、何事もなかったように撮影が快調に行われていた。

     黒部の太陽


            破砕帯  其の一

                         第23回 池田誠(衣装担当)

 

岩盤掘削のシーンは熊谷組の工場敷地にトンネルのセットを建て撮影が行われました。

破砕帯の撮影現場に居合わせたサンケイスポーツ記者が<宝苑>にこんな記事を載せている。


30日午後5時30分岩石投入機の整理も終わり11台のカメラも定位置に座りいよいよ撮影開始。

三船、裕次郎、玉川伊佐男、それに辰巳柳太郎の吹き替えをやる衣裳係の池田誠ら5人の出演者が勢ぞろい、_改めて3度、4度、とリハーサルを重ねられる.。    計算では岩を突き破った水は両端に置いた約40本の松の木の丸太に激しくぶつかり幾分水勢を弱めながら中央に流れこむ。

それを見て裕次郎が辰巳(代役の池田)を抱えて逃げ出す.。     ほとんど影響がないほど水勢が弱まったところで水をかぶる.。___

と云う事になっていた。

 午後7時過ぎ、本番開始。     熊井監督の「スタート」の声がかかる。

関係者は息を呑んで決壊する正面の壁を見つめる。

1秒、2秒、3秒、。  ドカーン。  轟音と共に壁が破れどっと水が流れ込む。

水しぶきが天井に当たり、跳ねあがり、積み重ねた松の木の丸太に当たる。

と、 動かないはずの丸太があっと言う間に水に跳ね飛ばされ、激流の波頭に乗って裕次郎らに襲いかかった。

 誰かが「危ない.裕ちゃん逃げろ。」と叫ぶ。   水に一番近いところにいた三船がすごい速さで裕次郎を抜いて駆け抜ける。   その時裕次郎が何かにつまずいて転んだ。    水勢に乗った丸太は容赦なく裕次郎らに覆いかぶさり一瞬にして水と丸太に巻き込まれた。

裕次郎が苦しそうに水の中で顔を上げる。

 私は、この目でこのシーンの撮影の成果を見届けたいと言う願望を満たすため、中央の床の上に据えたメーンキャメラの脇にいたが、すぐ後ろにいた熊井監督があっと言う間に後方に流され、カメラが水につかり、ライトの足がひん曲がり、流されながら水中にもぐった裕次郎が顔を上げ、何かにつかまろうとするのを見た。   だが,あとはライトが消え、何がどうなったがわからない。


そのうち「ライトをつけろ」と怒鳴るスタッフの声が聞こえ、続いて「三船さんがいない」「裕ちゃんもいないぞ」と場内は騒然。

 明りがつくと、辺りは丸太と岩石が深さ一メートルの水の表面にごろごろ。

スタッフは「三船さん」 「裕ちゃん」と叫びながら必死に丸太や石をひっくり返す。    幸い三船も裕次郎も後方に逃げ切っていたが、裕次郎は左足のズボンを付けねから膝迄破り太ももに長さ20センチほど裂傷を負った。

裕次郎は担ぎ込まれた市民病院で右手親指を骨折している事が判明した。

 

突然にふんどしに手拭い鉢巻、太刀を担いだ菊千代(三船敏郎)が飛び上がって
どしゃぶりの雨の中を駈け廻り野盗を切り裂く。
ご存知『七人の侍』でのラストシーン近くの立ち廻りだ。
野盗に食料や金目の物を狙われて、強奪される農民!
女たちのを守って戦う七人の侍ヒーロー。圧倒的な殺戮シーン。
志村喬、木村功等、それぞれに男のニヒル感ダンディズムがあるのだが、
若き三船(34歳)がひときわ光り輝いて、スクリーンからはみ出す位の迫力で観客にせまってくる。
不朽の名作で2度と再びリメークできない映画だ。
三船敏郎を世界の大スターに押し上げた傑作映画であろう。

一転して格好良く、颯爽(さっそう)とダンディーに登場したのが
『用心棒』(昭和36)『椿三十郎』(昭和37)の浪人三船だった。

『七人の侍』から7年後『無法松の一生』から3年目、全く性格の違ったヒーロー(主役)だった。
しかもマフラーを巻いた長身の仲代達矢、埃まみれの着たきり雀(いつも同じ着物を着たまま)の
三船の対比が通快で酒代だけで宿場の用心棒を引き受ける浪人三船はいつも弱い者たちの味方。
一貫して正義の味方なのだ。『椿三十郎』ではたよりない青年藩士たちの味方で、
藩に巣喰う大悪の陰謀を発(あば)いていく。
ここでも仲代の室戸半兵衛というインテリの凄腕侍を御殿場のすすきが原で決闘の挙げ句に
ドピューツと血を噴かせて殺してしまう。男があこがれ、女が惚れるダンディズムを見事に表現している。

2007年に織田裕二でリメークされた『椿三十郎』は
比較する方が酷でそーっと織田ファンが鑑賞すればよい。
ことほそさように三船の用心棒、椿三十郎は映画界を驚嘆させ東映を慌てさせた名作であった。

さて、美空ひばりさん(お嬢)と、性はその三船プロで『大江戸捜査網』で一緒に仕事をした。
400回突破特別番組で監督をさせてもらった。不幸にも母親が病気で、心労のひばりさんは体調不良、
あの松竹や東映の唄うスター美空ひばりのエロチズムには少々ほど遠い容体であったが。
スター女優としての一念だけは初顔合わせの若造(37歳)の前でも毅然たる態度で接して頂いた。
さすが世界の三船のスタジオで、世界の歌姫の面目躍如、抜群の存在感に自分の仕事を忘れた位だ。

ひばりさんといえば、七変化、特に男装の若衆姿がよく似合った。その時も娘、芸者、男衆等々、
五変化ぐらいあったが、体当たりで吹き替え(替わりに危険な撮影をやってくれる人)なしで
やると言ってもらった。
疾走の馬に子供が蹴り飛ばされそうな瞬間にお嬢が飛び出てその子を抱えて軒下へ
とび転がって助けるという場面だったが、いやはや大物は大物らしく、
三船でもひばりさんでも体を張った映画に臨んでいた姿が、
今も脳裏に宮越のスクリーンに焼き付いている。

宮越監督