三船作品に欠かせないのが殺陣(立廻り)シーン。
勧善懲悪の精神が時代劇の根幹を成しているからこそ、
悪を成敗する場面にいろんな工夫を懲らして殺しを再現する。

迫力、力感、スピード等を計算しながら、本物志向で仕上げていくのである。
東映の舞踊的美麗な立廻りに対して、大映、東宝系のそれは、
リアル感に裏打ちされた殺伐とした立廻りと言える。
『旗本退屈男』 『新吾十番勝負』 等と『座頭市』 『眠狂四郎』シリーズを
比較してみれば明白、更に三船物に至っては荒々しく凄絶な殺陣シーンと化す。

七曜会とは七人の斬られ専門役(芝居にも出演する)のグループ名で、文字通り
七人の侍からつけられた強力なる一団である。
私も何度となく彼等メンバーとは一緒に仕事をした。勿論三船さんの専属要員であった。
『用心棒』 『椿 三十郎』 『上意討ち』等々、数限りなく斬られて何千回と死んだことか?

怪我は名誉の頁傷のごとくつきまといだからこそ斬られる
時には各種工夫をこらして搦み、殺されたのである。
三船さんといえば少しは遠慮すればいいようなものなのに本気で斬るものだから生傷が絶えない。

『椿 三十郎』の屋敷門内の立廻りでは1秒間に3人、5秒間で7~8人斬り捨てたようだが、
斬られる侍(中心は七曜メンバー)は襟首にブリキ板を入れたり、背中や胴体には分厚い剣道着や
バスタオルを巻いたりして対処していたと聞いたことがあります。
「近い!」と叫んでバサッと斬る三船、「ご免!」と言って斬る三十郎、
まるで本物の生地獄の再現のような映像であった。

又、早業であった。
『用心棒』の村の広場のシーンでは砂嵐(竜巻状)の埃まみれの中、
目を開いていられない殺陣のシーンでは何人叩かれ、何人軽傷を負ったことだろう。
想像を絶する撮影風景が浮かんでくる。

他方『上意討ち』のラストシーンでは、すさまじいまでの形相と斬り合いで死んでいく、三船、
斬り方も激しくうまいが斬られ方もすさまじい迫力と無念さが漂っていて
実に惨酷さとあわれみが表現された。斬っても斬られても人を感動させたスターであった。

私の監督作品 テレビの『荒野の用心棒』では百人斬りというとてつもない殺陣を撮ったことがあります。
百人の斬られ役はいません、当然七曜会のメンバーを中心に助っ人の斬られ役を含めて三船が斬りまくるのです。
5分間の斬り合いで40人とか、一分間に7人位とか、それはスタッフ一同から他の俳優さんたちも、
一緒に喉が渇いて一緒にハァハァ、ゼイゼイ、三船さんは一升酒ならぬ、一升水と塩で最後に
「百人!」と言って倒れ込みました。
スペシャリストと世界の三船が四ツ組んだ考えられないような作品でした。

献杯、合掌。
1920年(大正9)4月1日中国の青島に生まれた
三船は秋田出身の父徳造が経営する「スター写真館」を手伝っていた。
中学の頃から三船はスターが冠としてすでに定まっていたのではないかと思われる。

軍隊時代には写真班に所属していたのだが、同じ班の初年兵が他中隊の士官に
ピンタをくっていたのを見かねて「いい加減にしろ!」とくってかかり、士官の階級章を
引きちぎって「階級がどうしたこんなもの関係ない!」と初年兵をかばった
エピソードは、正義感の強い三船さんの性格そのものだ。

又、東宝入社時の面接試験の折に審査員から「笑ってみて」と言われ
「おかしくないのに笑えません。」とふてくされたような態度で遂に審査員を睨んだという
エピソードはこれまた照れ屋で一本気な正義感の強い三船さんそのものだと思われる。

「上意討ち」の父親役、「無法松の一生」の車夫役、その他三船さんの役には必ず
正義感に裏打ちされた人間性がにじみでているし、顔の表情も鬼気せまるものがあるように思う。
一方ではペーソスな表情、照れ屋の表情もみてとれ、情愛たっぷりの三船も描写される。
本質的には、三船の正義感がにじみ出ていて、人間三船の魅力が充分に満足感を与えてくれる。
そこが世界の三船の最大の魅力だろう。

世界の三船たる根拠、受賞作品を列挙してみよう。

1951年(昭和26) 『羅生門』 ベネチア国際映画祭グランプリ受賞
1952年(昭和27) 『馬喰一代』 ブルーリボン男優主演賞
1955年(昭和30) 『宮本武蔵』 米アカデミー賞 外国映画賞
1958年(昭和33) 『蜘蛛巣城』 『どん底』他 毎日映画コンクール男優主演賞
1959年(昭和34) 『無法松の一生』 ベネチア国際映画祭グランプリ
1961年(昭和36) 『用心棒』 ベネチア国際映画祭 主演男優賞
1962年(昭和37) 三船プロダクション設立
             『用心棒』 『椿 三十郎』 ブルーリボン男優主演賞 日本映画記清会
                             キネマ旬報主演男優賞
1965年(昭和40) 『赤ひげ』 ベネチア国際映画祭 主演男優賞
1966年(昭和41) 『赤ひげ』 ブルーリボン男優主演賞 日本映画記者会最優秀男優賞
・・・
・・・ 中略
・・・
1971年(昭和46) 『レッドサン』 アラン・ドロン チャールス・ブロンソンと共演
1973年(昭和48) 宮越 澄『荒野の用心棒』で初監督
1997年(平成9) 12月24日死去 享年77歳

平成24年3月27日(火曜日)
東宝スタジオ第一ステージで「高峰秀子さんを偲ぶ会」が催されました。

会場に飾られた高峰秀子さん主演のポスター


ご案内にはサイレントからトーキさらにカラー映画と日本映画の発展とともに
50年に亘って主役を演じ、300本もの映画に出演された。
その足跡は日本映画そのものと言えます・・・。

高峰秀子さんの稀有な業績を讃えるとともに在りし日のその人となりを偲ぶ会を
高峰さん誕生日に所緑の地でご催したく、ご案内申し上げます。とある。

渡された高峰秀子フィルモグラフィーによると、1929年「母」(松竹蒲田)から
1960年「衝動殺人息子よ」(松竹大船)と169本の作品がリストされています。

その内1960年「娘妻母」(東宝)1962年「女の座」(東宝)の2作品を
衣装担当しました。また1966年千葉泰樹監督作品「沈丁花」(東宝)では
高峰さんが衣装監督として出演女優の衣装見立の際、助手として手伝いました。
この少ないご縁で招待された訳です。大変名誉なことです。

300余の出席者の中から各会の代表者挨拶が有り、その中で印象に残ったのは、
高峰秀子さんの映画の功績を讃え国民栄誉賞を与えて頂きたいと言うものでした。

「1本のクギを讃える会」の発足とその受賞者の発表と贈賞が催されました。
この会は生前高峰さんの発案で「監督や脚本家、俳優は賞を貰う機会に恵まれていますでも大道具、小道具、照明、床山、メイク、結髪・・・そういう人達はどれほどいい仕事をしていても誰も知られず消えていく。この会はそういう影の功労者達、映画を作るために懸命に努力してきた裏方さん達を讃える会にしたい」。と話していた。

第1回は、スクリプターの野山照代です。彼女は1950年「羅生門」以後
黒沢明監督の全作品(「白痴」はのぞく)にかかわった。
第2回は技髪、メークの小林重夫です。
彼は稲垣浩、黒沢明、木下恵介監督の名作にかかわった。

野山女史が受賞の挨拶で黒沢明が山本嘉次郎監督の下で助監督を務めていた時
撮影現場のエピソードを話していたので・・・・その話をします。

1938年「綴方教室」で高峰演じる正子の腕に蚊が止まり手で打つカットの時
黒沢は衣装から黒の絹糸を持ってきて、一匹の蚊を作り高峰さんが蚊を打つ演技を
行い易いよう腕に乗せた。1941年「馬」の撮影では、愛馬を見送って吹雪の中家に帰ったシーンではセットに飾ってあったローソクに火を付け溶けたローソク液を、高峰の演じるいねの睫毛(まつげ)に塗り、凍える様な寒さと、深い悲しみを表現した。

この話を聞いて私はふと思い出した、それは黒沢監督作品「赤ひげ」の撮影現場のことでした。
二木てるみの背負った乱児が仲々泣いてくれないので、
さすがの黒沢監督も手が打ちようがなく、困り果て・・・・・
下を向いて誰かに言うではなく「なんとかしてよ・・」とぼやした時です。
突然乳児が火が付いた様に泣き出したのです、天の助けか・・・はたまた奇跡か・・・
そうではないのです・・・。
ひとりの助監督がスタッフに気付かれない様に乳児の尻を指でつねって居たのです。
その指は監督のカットの声が監督のカットの声が掛かるまで乳児の尻から離れませんでした。

その助監督も今は居ません。天国で黒沢監督と一緒に映画作りに励んでいることでしょう。
日本映画の時の流れをシミジミ感じます。

”吹替”と云う言葉は、昔から市民権を得ています。

「広辞苑」によりますと、
(1)歌舞伎早替り、又は、一人二役が同時に登場する時など
   その俳優に似せた他の俳優に同一の衣装やまげを着けさせ、替玉に使うこと、
(2)又その替玉の事
(3)スタンドイン
(4)外国映画の独白(台詞)を日本語に翻訳して吹き込む事
      等記されて居ります。

声優と云われる人達が漫画映画の中の各々のキャラクターに合わせて
独白(台詞)を語る場合も吹替に当たりますが、実務上「アテレコ」と云います。
スタントマンと称する特殊な技術や、体伎を持った人達が活躍するのも
この吹替の世界です。


馬を走らせたり、落馬を演ずるのも仕事でありますし、
燃えさかる火中に飛び込んだり、忍者の如く屋根に飛び乗ったり降りたり、
とに角活躍の場は限りがありません。

各映画会社に所属する俗に大部屋と云われる俳優さん達、
主に剣友会と称する殺陣を演ずる人達が危険手当、吹替手当、
等々の特別出演料(ギャランティー)を得てそんな役を引き受けることになります。

それとは別に名だたる俳優さんには専門の吹替さんが存在します。
つまりそっくりさんです。背丈、顔つき、肉付き、
ほとんど同じ双子ではないかと思われるような吹替さんが居ります。
それが影武者です。

そんなそっくりさんの影武者が実際に映像の中に登場したからと
云って必ずしも似ている事にはなりません。
なぜかちっともにていないどころか、明らかに吹替である事、
別人であるように見えてしまいます。
不思議な現象でした。

それを教えてくれたのが永年に渡り三船敏郎氏の影武者を演じていた
田中 浩と云う俳優でした。

軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ--田中浩氏(三船敏郎氏の元影武者)


ご存知でない人も”テレビコマーシャル”某ハムの「わんぱくでも良い、たくましく育って欲しい」と云うフレーズの父親を演じていた男と云えば或いは思い出して下さるかも知れません。

彼は決して三船氏のそっくりさんではありません、身長も体重も三船氏より二まわりも大きな男です。彼を影武者に仕立てたのはまぎれもなく稲垣浩監督ではないかと思われます。

彼の出身は京都、父親は大映京都の大敵役の大俳優、寺島 貢、長谷川一夫氏や市川雷蔵氏の相手敵として活躍をした人です。
母は無声映画時代の大女優であった津島るい子、元々親交のあった稲垣浩監督がそんな二人のDNAを持った彼を三船氏の影武者として仕立て上げたのです。


然し彼が画面の中で三船さん演ずる人物を影武者として演じる場面を仲々見分ける事が出来ません。すべて三船氏が演じていて影武者が働いている存在が見当たらないのです。

それは、画面の中からはみ出す程のオーラを持つ三船氏の存在は二まわりも大きく、
動作を演じなければ通用しないと云う映像の中の不思議を知り尽くした監督の見事な起用に他なりません。

「太平洋の地獄」「レッドサン」と云う外国映画に三船氏に同行、
それを最後に影武者から脱却、TV時代劇の敵役として一人の俳優として登場することになります。

然し動作、くせ、姿はいつの間にか
三船の二まわりも大きく、小さなブラウン管の中の映像から飛び出します。

大きな敵役は主役の存在をより見事に引き立てる俳優と云う表方でありながら、
裏方に近い働きをしますので、舞台に、TV映画にと東京ー京都と引っ張り出されました。

そんな彼が正月公演五木ひろしショー新橋演舞場初日の舞台で見事な敵役を演じ、
舞台の袖に引き下がった時、過労と緊張なのか心筋梗塞を発症し、
六十歳の誕生日の前日に散ってゆきました。

筆者はこの天下一の影武者田中 浩氏の存在を三船氏と共に語り継ぐ
指命がある事を悟って居ります。


テスト。天気待ち。早昼飯。輪唱。と同じような日が何日も何日も続きました。
明神峠に通うこと七日間が過ぎましたが、一カットも撮影することが出来ませんでした。
田所兵衛役の松本幸四郎のスケジュールの調整がつかず。役が藤田進に変わっても、
明神峠の天候は変わることはありませんでした。

軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ--隠し砦の三悪人 その④ 

事件が起きたのは九日目のこと。
現場に着いてバスの棚を見ると、田所兵衛の陣羽織が掛かってないのです。忘れた!
急ぐジープを出して松屋へ・・・・ジープの運転手もことの次第を良く心得て下りの坂道を飛ばすこと、
車が大きくバウンドしてひっくり返りそうです。私は車の外に投げ出されないように吊革にしっかりと掴まり、
一生懸命、神に祈りました。
「どうかこの天候が、私が陣羽織を持ってくる迄、曇り続けていてくれますように・・・」と。
もし途中で晴れたら死んで、スタッフキャストの皆さんにお詫びしよう、と真剣に考えて居ました。

陣羽織は玄関の鴨居に何事もなかったように吊されていました。
私は陣羽織を抱えてジープに飛び乗りました。
御殿場の街は薄日が差して居ます。明神峠の天候は、山を見るが薄雲に覆われて居て良く分かりません。
晴れて居るのではないかと心配です。

上りの坂道でも、ジープの速度は落ちません、目一杯走り続けます。
「晴れないでくれ!」ジープが明神峠の入口に差しかかった時です。
谷間に乗って、あの歌声がかすかに聞こえてきました。
静かな湖畔の森の・・・・あの輪唱が・・・

よかった!天気待ちだ!
「間に合った運転手さんありがとう。」声を掛けるが運転手は前を見つめ、
ハンドルをしっかり握り、無心に車を飛ばし続けて居ました。

私だけの陣羽織忘れ事件が有りましたが、
撮影は十日目に成ります。太陽は相変わらず下の平野を照らしていますが
上の明神峠は雲に覆われ陽は照らしてくれません。

風速峠は照る照る、明神峠は曇る隠し砦は雲の中と心の中で呟いて居る時です。
ルーペで雲の動きを見て居たカメラ助手が「太陽が出ます!」の声。
「やって見よう!」と黒沢監督。

全員が一気に活気づく。縛られて馬に乗せられる、三船と上原。
「太陽がハッキリ出たら本番いきましょう!」と助監督。
「十日目でやっとカメラが回るか。」と照明助手。
両手にはしっかりとレフ板を支えている。
カメラが静かに回り始める。監督の目が鋭く、三船、上原の演技を見つめる。
七十余人スタッフがその一点に集中する。この時を逃すかと、次のチャンスは無いと息をのむ。
「カット!」黒沢監督の声が凛と山々に響き渡り、こだまとなって帰ってくる。

カット、カット、カットと細く長く頭の中に心地よく伝わって来る。
この瞬間が来ることを何人の疑いも無く黒沢監督を信じ、天候が良く成ることを信じ。
只、ひたすら待ち続けた、スタッフ、演技者たちの忍耐と精神力に神が答えてくれたんだろう。
「輝く太陽よ! ありがとう!」

アメリカの映画会社がカリフォルニア州に集中して有るのは、
色々な理由が有りますが、当時(20世紀の始)の映画フィルムの感度の問題から、
野外のような明るい場所でしか撮影が出来なかった。

ロサンゼルス一帯は雨量も少なく、地中海性気候のため、日が長く、
夏にはまばゆ太陽が輝き、映画撮影には理想的な気候の土地だからです。

軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ--明神峠のオープンセット

隠し砦の三悪人のロケ撮影は、御殿場の明神峠に関所のオープンセットを建ての撮影です。
現場に着くと黒沢監督が先ず、カメラのポジションを決めます。
それに従って各スタッフが撮影準備をし、演技者の位置が決まります。
それから、テストが始まります。監督の指示で何回となく演技テストが繰り返されます。
その間各スタッフも色々とチェックします。全てが整うと、撮影開始です。
後は撮影条件が一番良い天候待ちです。

全てが一致すると監督の「ヨーイ、スタート」でカメラが回ります。
黒沢監督の狙は眼下の平野から、引かれていく二人(三船、上原)を通してカメラが捕らえるのが狙いです。
峠の上も下に日が照っていなければ、撮影条件が合わないのです。天気待ちです。

他社のロケバスがオープンセットの関所を「オハヨウ!」「オハヨウ!」と手を振りながら通り抜けて行きます。
繰り返し、何回もテストを行います。が一向に太陽は顔を出してくれません。
助監督がこの状態が当分続くと判断して
監督に「早昼食にしましょう」監督は軽く頷いて「そうしよう」。

ロケ隊の昼食に御殿場名物、豚汁にバクダンむすびです。
黒沢組のロケ撮影には必ず豚汁隊が付いて来るのです。
三輪トラックに大釜とドラム缶を切った釜戸に食材(豚肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、ミソ等)
約七十人分を積んで撮影現場に来ます。撮影の邪魔にならない所に釜戸を設置し、
すぐ準備を始め、十一時頃には出来上がります。

コンビニの三倍もあるおむすびがのりに巻かれて二個、そして温かい豚汁。
野外で食べる朝食は最高です。

昼食が終わると、黒沢監督を中心に曲輪座(くるわざ)に成り、輪唱が始まります。
静かな湖畔の森のかげから・・・・ 静かな湖畔の森のかげから・・・・
と何回も繰り返し歌い続けます。時には天への祈りのようにも聞こえてきます。

カメラ助手は歌を聞きながら、ルーベで雲の流れ、太陽の光を見つめて居ます。
峠の日没は早く三時には陽が陰ってきます。
朝、風速峠に向かった他社のロケバスが山を下ってきます。
「おつかれさま!」「お先に・・」と手を振りながら帰って行きます。
風速峠は照る照る、明神峠は曇る砦し砦は雲の中。
我々ロケ隊もこんな思いで帰路に着きます。

つづく・・・・・

劇映画の製作は、スタジオのセット撮影、オープンセット撮影、ロケーション撮影と
特殊撮影(戦争映画、怪獣映画)等が有ります。

作品の内容にもよりますが、その割合は異なります。
基本的には、スタジオのセット撮影が主です。

隠し砦の三悪人の台本を読むと、撮影シーンナンバーが102有ります。
その内、ロケーション撮影が78シーン、オープンセット撮影が14シーン
スタジオのセットが9シーンで成り立っています。

↓御殿場での撮影風景(隠し砦の三悪人)
軽井沢名画サロン三の日会-映画話のあれこれ--隠し砦の三悪人のロケ御殿場

時代劇映画のロケ地は、御殿場、伊豆長岡等がよく使われる。
その理由は東宝砧撮影所から、比較的に近距離であること。
自然が豊富なこと、特に御殿場は、馬が集め易いこと。
地元の皆さんが、映画の撮影を良く理解し協力的なことです。

それに撮影に必要な馬集め、エキストラ集め、山の天気の見極めの確かさ、
これ等の的め役、長田孫作さんの経験と手腕に頼る所が多い。
隠し砦の三悪人のロケも、御殿場が撮影隊の本拠地です。

黒沢組のスタッフ、キャスト総勢70余名のロケ隊が、御殿場の各旅館に分散して宿泊します。
老舗松屋には、メインスタッフ(監督、カメラマン、照明技師、録音技師、チーフ助監督、製作担当者)
と主役級の俳優、女優、衣装、技髪、結髪係が宿ります。
他のスタッフ、キャスト達は、御殿場館大黒屋等々に分散して宿ります。

ロケ期間中は、これ等の旅館に一般のお客様は宿泊出来ません。
御殿場の主な旅館はロケ隊の貸切り状態です。

撮影スケジュールは香盤表で前日に各旅館に貼り出されます。
分散して宿って居る俳優達は香盤表を見て、松屋に衣装とカツラを取りに来ます。
小道具等は撮影現場で渡されます。

主役級の三船敏郎(真壁六朗太)千秋実(太平)藤原釜足(又七)上原美佐(雪姫)
樋口年子(村娘)松本幸四郎(田所兵衛)の衣装は衣装係に届けます。
俳優、女優達は旅館で全て扮装して、車とバスに分乗しロケ撮影現場に行きます。

長田孫作さんのエキストラ、馬隊にも前日に撮影香盤表が渡されます。
初日は全て現場で衣装、カツラ、小道具を身につけますが、
次の日からは各家から武者役は鎧、甲で扮装し馬に跨り意気揚々と山道を登って行きます。
また雑兵役も同じように、畳鎧(タタミヨロイ)、籠手(コテ)、脛当て(スネアテ)等で扮装し
バスで撮影現場に来ます。
御殿場のエキストラ隊を入れると総勢二百人近い大ロケ隊の行進です。

独り者にとって地方ロケは天国です。
先ず、三度の食事の心配が無い。朝は旅館で、昼は弁当、夜は旅館で皆んなと一緒に食事をします。
夜、酒を飲みたいひとは街に出掛け、終電を気にすることなく遅くまで飲んでも歩いて旅館に帰れます。
温泉に入り、女中さんが敷いてくれたふわふわの布団で毎夜眠れます。
また出勤は旅館の前に着いて居る、ロケバスに乗って、撮影現場に皆と一緒に行きます。
十日間もロケが続けば御の字です。

ロケ現場は自転車で約一時間上がった、鉢巻山の明神峠です。
延々とつづく細い道の曲がり角に山名領の関所が建られています。
この関所が撮影現場です。
この地方は山の上と下では天候の違いが激しく、すぐに変わります。

隠し砦の三悪人 その② 捕虜群の汚しー池田 誠さん(衣装担当)ー
隠し砦の三悪人 その①ー池田 誠さん(衣装担当)ー


テレビが産声を上げたのは、昭和二十八年あたかも、
日本映画界の巨匠、板東妻三郎が逝去した年にNHKが放送を開始したのだ。

大学出初任給が八千円時代に、十七インチ十五万円の受像機。
高嶺の花で庶民には手が出ない代物であった。
民放の放送のスタートは、六ヶ月遅れで日本テレビが続き、
今や全戸数にテレビが神棚のように鎮座している。

因(ちな)みに、
「地獄門」(衣笠貞之助監督、二十八年)
「雨月物語」(溝口健二監督、二十八年)
「七人の侍」(黒澤明監督、二十九年)等、
時代劇全盛期の時代であった。

テレビの時代劇は、早くも同年の七月に、
NHKの「半七捕物帳」が、シリーズ化されている。
新国劇の俳優及川武夫の半七親分がテレビドラマ初の時代劇と呼ばれている。
民放初の時代劇は、日本テレビが「エーケンの水戸黄門」(榎本健・主演)を、二十九年に放送している。
三十年には、KRテレビ(現TBS)が開局と同時に中村竹弥主演で「江戸の影法師」をスタートさせた。

筆者は、昭和三十六年(大学一年時)に、「新撰組始末記」で
中村竹弥(近藤勇役)さん何回も斬られた経験がありますし
又、竹弥さんの「大江戸捜査網」をも監督しました。
斬られた役が監督の出発点となり、
その後十二年の役者生活(殆どアルバイト的)と殺陣師(たてし)を経て監督に昇進させて頂いた。

貴重な体験を財産にして、三船プロで第一作「荒野の用心棒」を撮ったのです。
あの東映が山城新伍、目黒裕樹の「風小僧」で、
テレビ時代劇に制作参画したのが昭和三十四年でした。

この頃から映画同様にフィルム撮影のドラマが放送されるようになり、
テレビ映画のスタートとなったようだ。

民放初の連続大河ドラマは、三船敏郎、尾上菊之助、
大物俳優が続々と出演した、「大忠臣蔵」で、昭和四十六年、一年間の大作であった。

殺陣がない時代劇は具(つま)のない刺身、芥子(からし)のない納豆みたいなもので、物足らない、
味も素っ気もない。本当に味気ない限りだ。
殺陣は立廻りとも言って、人間の殺戮模様をいかに表現するか、大事な演出方法だ。

気合、確実な攻撃、残心、この三つの要素に加えて、迫力、流れ、美しさが求められる。
この殺陣の場面を演出するのが、殺陣師だ。
新国劇(島田正吾、辰己柳太郎、緒方拳等)の振付師に
殺陣師段平と呼ばれた俳優がいた。
彼は歌舞伎出身だが、芝居の立廻り(殺し合い)が形ばかりで迫力不足に欠けることから
一念発起、舞台、映画の世界にリアルな殺し合い、格闘のすさまじさを実現させた。
ここから、時代劇人気が沸騰爆発したのだ。専門の斬られ役も生まれたのだろう。

斬られ役で超有名になった一人が、福本清三(東映剣会)で、
私の監督作品にも、何百本と出演してもらい、何千回と斬られてもらった。
彼は顔相も体型も勿論、技術も並外れて秀逸である。
代表作は「ザ・ラストサムライ」の用心棒、トムクルーズの見張り役で一躍世界に羽ばたいた一人だろう。

殺陣のうまい俳優、六人の特徴について。
1, 三船敏郎
    豪快無双、迫力眼力満点、顔で人を斬る、残心に男を感じる。
2, 市川雷蔵
    華麗端整、剣の達人、静の美を表現出来る剣士。
3, 勝新太郎
   喧嘩剣法、無手勝流刹那的、間一髪の危険即発型。
4, 松方弘樹
   柔剛両方を持つ気障(きぎ)型、残心に特長があり、万能剣士。
5, 高橋英樹
    大技小技の気合型、剣の伸びと唐竹割(上段斬り)が特長。
6,松平健
    流麗舞踊型、速い、器用、流線型の美意識が強い人。

以上を参考に映画を観る目を変えてみては如何でしょうか?

時代劇が消滅の危機に直面している今、待望久しいのが 大悪人(おおわる)役であると思う。
勧善懲悪のストーリーには、必ず、ズタズタに殺られる悪役が必要不可欠の要素である。
すかーっとしないのだ。憎ったらしい奴が裁かれるから満足度が高まるのである。

そんな大悪人役が、ドラマから絶えて寂しい。
そこで今回は私が単独と偏見で決定する三人について話してみよう。

一人目は、進藤栄太郎、東映時代劇の全作品で悪役を演じている位に、
悪に徹していた俳優であったと思う。特に、「吉良上野介」が印象に残っています。

二人目は、東野英治郎。太郎の次は治郎という単純な順番になった。
延べ千二百回で終了する水戸黄門シリーズの初代黄門様の俳優だ。
最後に「アッハハハハ」と笑うパターンが有名になったが、敵役は抜群であった。

三人目は「釣りバカ日誌」の鈴(スー)さん役の三國連太郎。この人も太郎だ。
映画「切腹」の悪役老役は、あまりにも強烈に残っている。
灰汁(あく)が誰にも増して強い俳優さんの一人だ。

列挙したらキリがない位に悪役は多かった。
月形龍之介、若山富三郎、小沢栄太郎、伊藤雄之介、丹波哲郎、阿部九州男
吉田義夫、三島雅夫等々、キラ星のごとく悪役俳優達がいて、
叩っ斬ってやりたい悪役の数の多かったこと・・・・。
選ぶのに苦労したんではないかなぁーと、昔の監督を羨ましく思う。

昨今、悪役にしたい俳優三人をあげてみよう。
松方弘樹さん、役所広司さん、西田敏行さんに期待したいものだ。
彼らは、芝居力、眼力(めぢから)、芸の幅と大変に秀逸であるから、
大悪人も問題なくこなしてしまうに違いない。
忠臣蔵の吉良上野介を彼ら三人の内の誰かで見てみたい。
悪役俳優の出現を強く望む。