③天国の書についての考察 | かもめのヨハナ☆バラの花冠(*'ω'*)☆彡

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天国の書についての考察

 

 

いばらの冠の意味

 

私たちの主イエス・キリストから

神のはしため、ルイザ・ピッカレータ

(神の意志の小さな娘)へ

 

 

第5巻より 

 

 

1903年10月12日

いばらの冠の意味

 

今朝私は自分の内側に、いばらの冠をかぶった愛すべきイエスを見ました。そしてそのような状態の彼を見て私は彼に言いました。

 

「私の愛する主よ、なぜあなたの頭は多くの苦しみを受け、多くの血を流したあなたの鞭打たれた体をうらやましく思ったのですか? そしてあなたの頭は、苦しみの装飾で飾られたあなたの体に負けたくなかったので、あなた自身が敵を動かして、このような苦痛に満ちたいばらの冠をあなたに被せたのですか?」

 

そしてイエスは

「娘よ、このいばらの冠には多くの意味が含まれていて、私がどれだけ話しても、語るべきことは常にたくさんあります。実際、私の頭が、一般的な苦しみではなく、特別な苦しみと、肉体とほとんど競い合うような血を流すことで、名誉を得ようとした理由は、被造物の心にはほとんど理解できません。その理由は、頭がなければ体が成り立たないように、頭こそが体全体と魂のすべてを結びつけるものだからです。人は体が欠けても生きることが出来ますが、頭なしに生きることは不可能です。なぜなら、頭は人間全体の本質な部分だからです。実際、体が罪を犯したり善を行なったりする場合、体は道具にすぎず、それを指示するのは頭です。それゆえ私の頭は、人間に政権と支配権を取り戻し、彼らのために、新しい恵みの天と新しい真理の世界を人間の心にもたらし、人間が自らを下劣な情念の卑怯な奴隷にするところまで到達させる新しい罪の地獄を拒むようにすることでした。全人類に栄光と名誉と礼節を冠することを望んでいた私は、罪から奪われた不滅の王冠を被造物に返すために、不滅の王冠の象徴であるいばらの王冠を、大変な痛みを伴いながらも、まず自分の人間性に王冠をかぶることで敬意を表したかったのです。さらに、いばらの冠は、いばらのない栄光と名誉はないということを意味しています。自分の肉体と精神の奥深くを刺されるのを感じることなしに、情熱を支配し、美徳を身に着けることは決して出来ません。そして真の支配とは、殉教と犠牲によって自らを支配することなのです。さらにこれらの棘は、私が真の唯一の王であることを意味しています。私を心の王とする者だけが平和と幸福を味わい、私はその人を私の王国の女王とします。だから、私の頭から流れ出た血の小川は、人間の知性を私の主権の知識へと結びつける多くの小さな流れだったのです。」

 

でも、私が内面で感じていることのすべてを誰が言い表すことができるでしょう?それを表現する言葉がありません。さらに私が言ったことはほんの少しで、つながりのないようなことを言ったように思えます。そして神の事柄について語るとき、それは主が話す方法と同じくらい高貴で崇高でなければならないと私は信じています。神は創造されておらず、私たちは創造された存在なのだから、人はどもりながらしか神について語ることができないのです。

 

 

 

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キラキラみなさんに神様の祝福がありますようにキラキラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天国の書」とは日本で発行されている「被造界の中の神の王国」のことです。

外国のサイトで全36巻読むことが出来ますので、ヨハナの翻訳を待っているのが面倒な方は、そちらを検索してみてくださいね(*'ω'*)☘

 

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