昭和天皇の87年:■第89回 満州事変(1) 鬼才、石原莞爾の大謀略 天皇が先手を取って動いた | 護国夢想日記

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鬼才、石原莞爾の大謀略 天皇が先手を取って動いた

2019.1.19

■第89回 満州事変(1)

 1931(昭和6)年夏、満州-。

 

 在住邦人の若手らでつくる満州青年連盟の理事、山口重次らは、関東軍司令部の幕僚から呼び出しを受け、浮かない顔で路地を歩いていた。

 

 「どうも、相手が悪いな」

 理事の一人が言った。

 

青年連盟はその頃、満州で悪化の一途をたどる排日行為に何ら有効策を打ち出せない政府、総領事館を批判する遊説を各地で行っていた。

 

批判の矛先は、相次ぐ邦人被害に立ち上がろうとしない関東軍にも向けられ、「腰の軍刀は竹光(たけみつ)か」と冷笑することさえあった。

それをとがめられると思ったのだ。

 

 ところが、意外にも関東軍の幕僚らは、青年連盟の理事らを酒席でもてなした。

 

 「本夕は、皆さんのご意見をお伺いしたいので、特にご足労をわずらわせました」

 

 幕僚の言葉に、理事らは身を乗り出した。

言いたいことは山ほどある。

 

満州を支配する張学良の排日政策によって、いかに在住邦人が虐げられているか、理事らは熱弁をふるった(※1)。

 

 と、話の途中で、大きなあくびをした参謀がいた。

 「結局、青年連盟も権益主義者か…」

 

 聞こえよがしのひとり言に、山口は反論した。

 

 「とんでもない誤解だ。われわれはむしろ、くだらぬ権益の放棄論者だ。

日本の治外法権も、旅順と大連の租借権もみんな放棄して、日満共同の独立国を立てようと、

青年連盟では主張している」

 

 それを聞くと、参謀の態度が一変した。

 

 「よろしい。あなた方の信念は分かった。腰の刀は竹光かといわれるが、張学良軍閥の打倒ごときに三尺の名刀を用いる必要はない。

いざ事あれば、電撃一瞬のうちに決する」

 

 参謀の名は石原莞爾

帝国陸軍の鬼才とも、異端児とも呼ばれた逸材である。

 

もっとも当時は一介の中佐にすぎず、その過激な発言に、山口らは驚くよりもあきれた。

 

張学良軍は22万、関東軍は1万余り。

しかも満州の面積は日本本土の3倍もある。

 

どうやったら電撃一瞬で打倒できるのか。

 

 だが、石原らはその時、陸軍中央の一部と気脈を通じながら、壮大な謀略の最終準備を進めていたのだ。

× × ×

 

 軍部に不穏な動きがある-。

 

 そんな情報が外務省などにもたらされたのは、9月に入ってからだ(※2)。

不穏な動きを危惧した昭和天皇が、先手をとって動いた。

 昭和6年9月10日《海軍大臣安保清種に謁を賜い、人事内奏などをお聞きになる。

 

その際、安保に対し、海軍における規律の乱れの有無をお尋ねになる。

その事実はないとする安保の奉答に対し、海軍軍紀の紊(みだ)れがなければ幸いであるが、将来大いに軍紀の維持に努力すべきようお命じになる》

(昭和天皇実録18巻86~87頁)

 

 11日《陸軍大臣南次郎に謁を賜う。

その際、南は、天皇よりの陸軍の軍紀問題に関する御下問を待たず、若い将校の言動に対し充分取り締まること、外交に関しては外務当局の管掌するものであることから陸軍としては容喙(ようかい)等は慎むなど注意する旨の奏上をなす。

 

よって天皇は、南に対し厳なる軍紀の粛正をお命じになる》(同巻87~88頁)

× × ×

 

 その頃、参謀本部の中枢が関与したクーデター未遂事件(三月事件)が発覚し、軍部の不穏な動きを憂慮する声が高まっていた。

 

加えて関東軍の一部が謀略を画策しているとなれば、憲政の土台が崩れかねない。

 

昭和天皇は、陸海両相に軍紀の厳正を命じることで、謀略の芽を摘もうとしたのだろう。

 

 一方、陸軍首脳が外務省などを通じて関東軍の動きを知るのは、その数日後とみられる。

 

陸相の南と参謀総長の金谷範三が青ざめたのは言うまでもない。

軍紀違反を取り締まると、昭和天皇に奏上したばかりだ。

金谷は参謀本部第1部長の建川美次(よしつぐ)を呼びつけると

関東軍の手綱を引き締めにかかった。

 

 だが、手綱はすでに切れていた--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

 

(※1) 1928(昭和3)年の張作霖爆殺事件以降、後継者の張学良は極端な排日政策をとり、日本人への土地の賃借を禁止し、鉱山採掘権を否認するなど、日本が持つ条約上の権益を次々に侵していた。

 

一方で日本側にも問題があり、昭和恐慌などのあおりで満州に渡った新興住民の中には、中国人を見下して横柄な態度をとる傾向が少なくなく、それが満州の排日行為を助長していたとされる

 

(※2) 満州事変を主導した関東軍高級参謀の板垣征四郎はのちに、「計画が中央へ洩(も)れたのは、(奉天総領事の)林久治郎が、板垣が大勢の浪人者を使い、多額の機密費を使って陰謀を企んでいると幣原(喜重郎)外相のところに打電したからだ」と語っている。

 

一方、参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎によれば、右翼巨頭の頭山満の関係者が関東軍の謀略を外務省に密告したという

 

【参考・引用文献】

○山口重次著「悲劇の将軍 石原莞爾」(世界社)

○阿部博行著「石原完爾〈上〉」(法政大学出版局)

○森克己著「満州事変の裏面史」(国書刊行会)

○宮内庁編「昭和天皇実録」18巻

 

「昭和天皇の87年」