◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 642」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 642」

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≪(承前)『蹇蹇録』で、陸奥は、この一件での世界の新聞報道について、こう述べている。

【口語訳=とくに米国の新聞の中には、厳しく日本軍の暴行を非難し、日本は文明の皮をかぶってはいるが野蛮の筋骨をもった怪獣であるとか、日本は文明の仮面を外し野蛮の本体をむき出しにしたと批判L、暗に、今回、締結した日米条約で治外法権を放棄することは危険である、という意見も出て来た。

……何事においても、世論の動向を観察してどう行動するか敏速に舵を切る米国の政治家は、このような驚くべき知らせを新聞で読んで、対岸の火事のように無視はできず、元老院は日米条約に協賛するのをためらうようになった。

 明治二十七年十二月十四日に、在米栗野公使から受け取った電報には、「米国国務大臣は私に対して、もし日本兵が旅順口で清国人を慘殺したという噂が真実であれば、元老院において大変な困難を引き起こすことになるだろう」とあった。

 そこで私は、直ちに粟野公使に打電した。

 

 

旅順口の一件は、風説ほど誇大でないにしても、多少、必要のない殺傷があったかもしれない。

 

 

しかし、わが国の兵士の他の所での行動は、いたるところで常に称賛を得ている。

 

 

今回のことには、何か感情的な原因があったのであろうと思う。

 

 

日本兵に殺されたものの大多数は、罪のない一般人ではなく清兵が軍服を脱いで行動していたものだという。

このような出来事によって、さらに多くの噂が立たないうちに、あなたは敏捷にしかるべき手を打って、一日も早く新条約が元老院を通過するように尽力しなさい」といい送った】≫

この事案は、大東亜戦争終結後数年たったころに、突如米国はじめ世界中に喧伝された「南京虐殺事件」に酷似している。

 

 

当時の日本軍も政府も、全く意識していなかった事案だったから、その新聞報道に戸惑ったが、その間もこの“虚報”は、悪意ある情報戦に発展し、GHQによって軍隊は悪だと教育されていた日本人の中に

 

 

「支那事変で南京に進出した日本軍」による非道な事件だと誤解する結果を招いた。実に“敵の思うつぼ”に入り込んだのである。

 

 

岡崎氏はこう書いている。

 ≪日本兵が清の便衣隊を殺害するきっかけは、在留邦人の切断された死体が発見されたことだったようで、これは後の済南事件、通州から南京に至る事件と一致する様相を呈していた。

 南京事件の際も、日本政府は、国際世論に対して、陸奥のように積極的にアピールするマスコミ対策をすべきであったのであろう≫

全くその通りである。

 

 

戦後の日本政府は、陸奥が取った行動を知らなかったからか、敵方の言いなりにして放置してしまった。

 

誠に悔やまれてならない。

しかしこの間も米国との外交交渉は続いていた。

≪この虐殺事件の報道で、米国元老院は、なかなか新条約を批准せず、あらたに修正を加えてきた。

 

 

しかし、この修正は、条約全体に対する影響が大きかったために、陸奥は栗野公使にさらに米側と折衝を重ねるように指示し、翌二十八年二月に元老院が再議して、ようやく日米双方が納得できる再修正を加えたのち議決され、日米新条約が成立するに至ったのである。

 明治の一大宿願である条約改正は、戦争の影響を受けながらも、当事者の苦心惨憺の末に、改止に漕ぎつけることができた≫

日米開戦直後の米国でも、時のF・D・ルーズベルト大統領は、周囲にたむろしていた共産主義者たちの扇動に乗って真珠湾攻撃を「卑怯なだまし討ちだ!」と決めつけ、世論を誘導した。

事ごとに世論を重視する米国であったから、日本政府も軍部も、その特性を十分に把握しておくべきであったろう。

 

 

しかし残念なことに、米国民の心情と、米国社会の特性を十分に把握していた外交官も、軍人も少なかった。

ただ、斎藤大使のような例外もあるのだが、こと知米派の軍人に至っては、戦力差についてはよく把握していたと言えるが、米国人の特性までは掴んでいなかったように見受けられる。

その代表的な例が、近衛首相と山本五十六の荻外荘における会談であろう。

対米戦の見通しについて聞かれた山本は、本気だったならば近衛に「開戦を思い留まらせる」べきであった。

 

 

しかし「1年ほどは十分に暴れてみせる」などと近衛の誤解を招くような発言をしたのであった。

これは、米国民の特性を十分理解していなかったからであろう。

続いて岡崎氏は「第四章 日本、破竹の快進撃」の項に入るが、副題に「日本を取り巻く情勢の変化に、注意を怠らない陸奥の透徹した観察」とある。

そして裏表紙には「遺恨十年、粒々辛苦の末、日本は豊島沖で清国軍艦を撃破する。

 

 

輝ける大日本帝国時代の幕開けだった」とあり、「十五 日清開戦前夜の駐韓公使とのやりとり――陸奥・大鳥・岡本の信頼関係」に進む。

大島圭介・在朝鮮公使は、従来、「日本が派遣した大軍が朝鮮で立ち枯れになる難局に直面して、なんとかして、清との宗属問題にかこつけて、衝突を起こさせる以外に方策はない」と頻りに主張してきた。

 これに対して、陸奥は、諸外国の反応と閣内の慎重論を考慮して、大島公使に対して「貴官は自ら相当と認むる手段を執らるべし。

 

 

しかしながら兼て電訓し置きたる通り、他の外国との紛擾を生ぜざるよう十分注意すべし。

 

 

我が軍隊を以て王宮および漢城を囲むは得策に非ずと思考するが故に、これを決行せざることを望む」(明治二十七年七月十九日付)と、

 

 

他国との摩擦を生じないように、そして王宮や漢城を日本軍が取り囲むような軍事的笋段は得策ではないので、極力、穏健な行動をとるように訓電した≫  (元空将)