◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 641」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 641」

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≪(承前)陸奥は歴史的な大演説を行い、その直後質疑も受け付けず議会を解散して、その間に、英国との条約の締結を急ぐが、英国側はなかなか交渉に応じない。

 

 

ようやく、函館に英国船の寄港を認め、ロシアの南下に対抗することを可能にさせることにより、粂約締結の最後のハードルを越える。

 

 

改選後の議会で政府の議会対策は小康を得るが、陸奥が朝鮮半島情勢に忙殺され、議会対策を顧みるいとまが無い中で、政府は再び議会のコントロールを失い、条約改正を目前にしながら、またも窮地に陥った。

日清戦争開戦直前の政府は、背に腹は替えられず、その時はさすが、非立憲的という批判はあったが、再度、議会を解敗して、政府がフリーハンドを持つための時間を稼ぐほかはなかった。

 こうした苦心の議会対策の末に、ようやく日英条約調印にこぎつけた。明治二十七年(一八九四)七月十六日のことである。

 

 

この時のことを、陸奥は感慨を込めて、『堊寔録』に次のように記している≫

この陸奥の決断こそ「英断」と呼ぶに相応しい。

 

 

国家存亡の危機に臨んで、全く一身を顧みず、いわゆる「愛国心の発露」として実行したものだからである。

 

 

そうであればこそ、外野の非難など気にすることはない。

現代の我が政情には、この精神が欠落していることが判る

 

 

戦後「自由と民主主義」と呼ばれる異邦人の文化を与えられ、戦時中までの“抑圧された”言論の不自由さから“開放された”と錯覚した「えせ知識人たち」の横暴がまかり通っているからである。

 

 

同時にこれに怖気づいた政府にも、蛮勇を振るう勇気が欠落してしまった。陸奥はこう述べている。

≪【口語訳=そもそも、条約改正の大業は、明治維新以来のわが国の願いであり、これを完成しないうちは、維新の偉大な実績もまだ完成していないというのが、わが国全体の一致した意見だった。

 

 

……ロンドンにおける条約改正の事業は、多くの困難の中から僅かな活路を切り開いて進んできたもので、今、ようやく目標を達成する時を迎えていた。

 青木周蔵公使は、「明日には、新条約に調印することができる」と打電してきた。

 

 

私がこの電報を受け取った時は、どのような時だったか。

 

 

朝鮮の危機はまさに目前に迫り、自分が大鳥駐韓公使に向かって「断固たる処置をとる必要がある。

 

 

どんな口実を使っても差支えないから、行動に出てよい」と宣戦布告に近い打電をした時からわずか二日後のことだった。

 

 

私がこの間、どれほど苦心惨憺しつつ舵取りに多忙を極めたかは、言葉には尽くせないほどだ。

 

 

しかし、今、この嬉しい知らせに接して、これまでの長年の労苦を忘れることができた】

 条約改正の調印電報を受け取ると、陸奥は直ちに斎戒沐浴して皇居に走り、明治天皇にその旨伏奏した。そして英国外相に謝意を伝えるよう、ロンドンに打電した。   

青木公使からの謝意の表明に対して、キンバレー外相は、「この条約は、日本にとっては清国の大兵を敗走させたより、はるかに大きな意義がある」と述べた。

 ここに、日本は。条約の規定により、裁判管轄権および関税自主権のそれぞれについて一定期問を経過した後に、完全な自主権を回復することとなった。

 その八日後、豊島沖海戦があり、日清戦争の幕が切って落とされることになるのである≫

この部分を記しながら岡崎氏は、どのような感想を持ったであろうか?と推察する時、大いなる関心が湧く。

岡崎氏も、戦後の外交官として、数々の外交交渉に携わったのだが、この様な「決断力に富み、愛国心に溢れた“上司”に巡り合わなかったことを、残念に思ったに違いなかった。

 

 

戦後にも、愛国心に満ち溢れた外交官はいたのだが、肝心要の政治家や、外交に携わる高級官僚らに人を得なかったのが、戦後日本の不幸であったとは言えまいか?

続いて岡崎氏は、「十四 旅順口虐殺事件と日米条約――障碍を乗り越え、新条約成立へ」の項に進む。

≪イギリスとの条約改正は成功したが、その後、旅順口占領に際しての虐殺報道は、米国との条約改止の上院批准の障害となる。

 そもそも、アメリカは日本に対して好意的な立場をとっていた。

 

 

条約改止についても、他の各国はいろいろと異議を唱えていた時も、米国だけは常に日本の要望をできるだけ受け容れようという姿勢を示していた。

 明治二十七年(一八九四)、米国・ワシントンで、日米両国の全権委員が条約改正の会談を開始して以降も、とくに支障となることもなく。条約交渉は順調に進んでいた。

 

 

そして同年十一月二十二日に日米通商条約は調印に至る。

 しかし、ここに一つ、ハードルがあった。

 

 

それは。米国憲法に、外国との条約は、元老院の協賛を必要とする、という一項があった。

 

 

このため米国政府はこの新条約を元老院に送付する。

 一方、日本は、それに先立つ八月一日、清国に宣戦布告をして戦争に突入していた。

 

 

折悪しく、同条約が元老院に送付された後.日本軍による旅順口虐殺事件と言うニュースが世界中を駆け巡ることになる≫

この項目は注目に値する。

 

現在のわが国が置かれた立場に酷似しているからである。

 

 

つまり、悪意あるメディアによる、情報戦の始まりだったと言えよう。

大東亜戦争で日米が戦端を開かざるを得なくなったのも、時の米大統領・F・D・ルーズベルトと、その取り巻きの中に潜入していた共産主義者たちの“陰謀=謀略”が作用していたのだが、日本はそれに気が付かなかった。(元空将)