◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 643」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 643」

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≪(承前)しかし、事態は、こうした訓令に従って強硬手段を差し控えることが不可能なほど切迫していた。

 

 

そこで、大鳥公使は「何らの口実を使用するも差支えなし」(同月十二日付)という、前に陸奥から受け取った公電をよりどころにして、自らの所信を実行に移した。

【口語訳=ちょうど、穏健な行動を電報で指令したその十九日に、大鳥公使はすでに朝鮮政府に対して「属邦保護の名目で清軍が長期間、朝鮮国内に駐在するのは朝鮮の独立を損なうものなので、速やかにこれを国外に駆逐するように」と要求していた。

 

 

さらにそれを報告した電報の文末には、「もし朝鮮政府が満足する回答をよこさない場合は、本使がこの機会に朝鮮政府に対して大改革を行う」と書いてきた。

 そして、七月二十三日午前の電報では、「朝鮮政府からの回答は、日本側の要求を容れないものだったので、日本軍は王宮を包囲して強硬手段に出た」とあり、午後の電報では、「日韓の兵士の小競合いは十五分ほどで終息し、今は静まり返っている。

 

 

私が王宮に出向くと、大院君自らが迎えに出て、国王から国政を任されたと言い、国政などの改革は今後すべて日本に相談すると約束した」と打電してきた。

 

 

こうして十九日の私の電報は、意味がなくなってしまった。

 こうしてその後、数日のうちに、大鳥公使や大島旅団長から、牙山や成歓での戦勝の報告が入った。結局、大鳥公使がとった強硬手段も功を奏したといえる。

牙山の戦いが勝ったために、京城付近ではもはや清国兵は一人もいなくなり、朝鮮政府は日本の支配下に入ったという知らせは国中に伝わり、

 

 

欧米各国政府も日清間の戦争が始まってからは干渉する余地がなくなり、しばらく安心して過ごすことができた】≫

 この陸奥の述懐を読むと、当時の政府の判断の裏には、如何に軍事と外交が密接に作用していたかと言うことが判る。

 

 

そしてそれが正しく作用しているのである。

「明治維新」と言う革命を体験したせいだろうが、それどれの部署にある一人一人が、“新国家建設”の意欲に燃えていたのであり、如何に国難に対処すべきかを理解していたのである。

 

 

47年後の盧溝橋事変に比較すると雲泥の差がある。

 更に戦後、戦勝国から押し付けられて、軍国主義は悪だから政治と分離し、流行言葉のように叫ばれている「シビリアンコントロール」下にある現代とは、全く比べ物にならない。

 

 

文と武は密接でなければ、国として機能しないのである

 

 

戦後日本政治が、大きな過ちを犯したのは「文と武を分離することが、いかにも先進国の常識だと誤解したこと」だと言えよう。

そしてその裏には、熱烈な愛国心に燃えた国士の存在があった。

 ≪『蹇蹇録』には記述は無いが、その背後には一代の壮士・岡本柳之介の活躍があった。

 岡本は明治維新早々、薩長藩閥のえこひいき人事に反発した陸奥が、和歌山にプロシア的軍事国家を建設した時の和歌山軍の連隊長であり、明治十一年の陸奥の収獄に際しては部下を指揮していわゆる竹橋事件を起こし、その罪で、一切の公職から迫放の処分を受けて、以後は全くの個人として国事に奔走していた。

 金玉均の上海行きには反対し、暗殺の報を聞いて、時すでに遅きには失したが、遺体取引に上海に赴いたのも彼であった。

 

 

陸奥は、大鳥公使の赴任に際して、岡本に「万事老兄の働きに依頼する」と書き送ってあった。

 大鳥公使は、武力で介人して朝鮮に親日政府を作ろうとしたが、朝鮮には最早、昔の独立派の流れを汲む親日派もなく、現政権に代わって朝鮮政府を代表できる人物としては。

 

 

当時権力から疎外されていた大院君しかなかった。その大院君を二十二日の晩から二十三日の明け方にかけて、説得したのが岡本である。

 

 

そして、なかなか説得を受け入れないので様子を見に行った杉村に対して、大院君をして、「この男は英豪の士だ。

 

 

自分が出馬しなければ切腹すると言っている」と言わしめて、遂に出馬を受諾させ、二十三日のクーデターの下準備をしたのは岡本の働きであった。

 これも、すべて間一髪のタイミングで行われた。

 陸奥と大鳥の間の阿吽の呼吸、そして明治維新以来の陸奥と岡本の信頼関係があって、やっと問に合ったのである≫

続いて岡崎氏は、「十六 豊島沖海戦」に入るが、副題は「粒々辛苦の末、日本が仕掛けた戦闘」である。

 ≪陸奥が斎戊沐浴して、条約改正の成功を天皇陛下に報告してから、わずか八日後の明治二十七年(一八九四)七月二十五日には豊島沖海戦が行われて、日清戦争の幕が切って落とされた。

 それは、ただ日清戦争の幕開けというだけでなく、その後、大東亜戦争の敗戦まで.半世紀の間続く大日本帝国時代の暮開けでもあった。

 豊島沖海戦について、まず戦後、復刻・要約された「日本の戦史・日清戦争」の記述を要約してみる。

明治二十七年七月二十五日早朝、連合艦隊第一遊撃隊の吉野、秋津島、浪速は、朝鮮西海岸の豊島沖で、清国軍艦済遠、広乙と遭遇した。

 

 

日本側は、万一の場合に備えて戦闘準備を命じつつも、まだ平時なので海軍の礼式に従って清国軍艦とすれ違うつもりでいた。

 

 

しかし、三千メートルの距離で、突如、済遠が吉野に向けて発砲した。

 

 

日本艦隊はただちに応戦し、激しい砲撃戦が始まったが、艦の煤煙と大砲の硝煙が朝霧と一緒になって、何も見えなくなってしまった。

 ようやく霧が晴れていくと、広乙はすでに戦闘能力を失って徐行し、済遠は逃走中で、浪速が済遠を追っていくと、済遠は白旗と日章旗を掲げて降伏の意を表した≫  (元空将)