【知道中国 1684回】――「全く支那人程油斷のならぬ者はない」――(中野4) | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1684回】              
――「全く支那人程油斷のならぬ者はない」――(中野4)
  中野孤山『支那大陸横斷遊蜀雜俎』(松村文海堂 大正二年)


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「飯も汁も香物も」口に合わない。

 

 

「それはそのはづさ、飯は濁水で蒸し炊き一種異樣の匂がプンとする、汁は豚の首や脛骨が其儘はいつてゐる、香物には豚油がザンブと注いである、

 

 

お負けに器物が粗末で大形で箸は頗る長い、茶は紅茶で朝飯は粥に極まつてゐる、其粥が胃病患者のものゝ樣に、飯粒は形を失ふ迄煮てある」。

  中野の不平不満も判らないわけではない。だが「東洋啓發を以て天職とする我が日本」とまで言い切った以上、泣き言は禁物だろう。

 

 

それがまた中国の現実なのだから。

  中野の乗った船は、やがて漢口に。
  ここには2軒の日本旅館があり、「竹廼家も繁盛してゐる松廼家も劣らぬ盛況」だった。

 

 

「日清馬關條約によつて出來た」日本租界を歩くのだが、ここでドイツ商法のアコギな姿を知ることになる。

 「漢口の日本商人諸氏は、日本發展先驅の士である、日本品の價値を高むるも日本人の品位を高むるもすべて先驅諸氏の關する所である」。

 

 

「商品は確實堅牢なるべく、商法は誠實なるべき」は当たり前だが、諸外人も多いことから注意の上にも注意が必要だ。

 

 

「中にも獨逸人の如きは常に日本品の缺點を探つて、之を害せんとつとむるばかりでなく、時々粗製の日本品を模造して、日本品の價値を失なはせんとつとむる」という。

 

 

やはりドイツは「大敵であるから、一層意を用ひなければならない」。

漢口に先んじた上海でも中野は「獨逸の如きは我を大敵と見て甚だ努めてゐる。

 

 

大いに心すべきことである」と綴っているが、どうやら日本商品に対するドイツの妨害工作は漢口に限られたことではなく、いわば中国全土で行われていたと考えたほうがよさそうだ。

 

 

ドイツの商法は、なんとも、どこまでも、徹底して小汚い。

 「人情浮薄毫厘の爭ひに情誼を顧みない」ような「土人」に対し、一方では我を大敵と見て甚だ努めてゐる」ドイツ人を向こうに回さなければならない。

 

 

「前門の狼 後門の虎」ならぬ前門にはコヨーテのような「土人」、後門にはハイエナのようなドイツ人である。

 

 

やはり中野ならずとも、「支那人其他諸外國人に對しては、大いに注意すべきことだ、發展の光輝を失ふを恐る」である。

  中野の忠告から100年余が過ぎた現在でも、中国市場においては依然として「支那人其他諸外國人に對しては、大いに注意すべきこと」に相違はないだろう。

 

 

それにしてもドイツは、なぜ、そこまで日本を敵視し貶めようとするのか。

 

 

この点を、ドイツについて詳しい方に是非ともお教え願いたいところであると同時に、なぜ日本人はドイツを好むのか。

 

 

日独伊三国防共協定の昔に遡って、深く考えたい。

 

 

有態にいって、日本はドイツと組むことで国を益することがあったのか。はたして日本にとって、ドイツは疫病神ではなかったのか。

閑話休題。
さらに船は長江を遡り宜昌へ。ここでも「支那旅館の不潔と殺風景」は募るばかり。

 

 

同地第一という触れ込みの旅館といに旅装を解くものの、その作りは「すべて粗造なる一として全きものはない、

 

 

而もふるびて煤煙や蜘蛛の?が室内に滿ちてゐる、網代天井は半ばは破れ、中央よりたれて煤は其上に堆積してゐる、

 

 

鼠が運動すれば松の花粉が軟風に飛ぶが如く滿室悉く煤が飛ぶ、柱も壁も煤にふるびてゐる、それに代る代る客が鼻汁をなすりつける、それに又煤煙がつく、

 

 

おまけに壁側四方隅々など暗黒の所には、前夜の客が小便を放漏し尿素は鼻を突き、夜になれは南京蟲は襲撃する」。

――室内不潔煤蔓延 四圍壁面鼻汁滿 老鼠走去花粉飛 前夜尿素碎睡魔!?
《QED》

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(宮崎正弘のコメント)

 

 

文中の「日本はドイツと組むことで国を益することがあったのか。はたして日本にとって、ドイツは疫病神ではなかったのか」の箇所、まことにもって、その通りですね。

 

 

中村彰彦『二つの山河』(直木賞受賞作)を思い出します。

 

 

あれほどドイツの捕虜を厚遇した日本、所長は会津武士でした。

 

 

ドイツには武士道がないからでは? 騎士道は南欧からフランスにかけてですし。

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