佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 636」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 636」
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≪(承前)これだけの国家の運命を左右するような事案について、陸奥が即断即決し、かつ判断を誤らなかったその冴えは驚嘆に値する。

 もちろん、何よりも、明治初年以米、培ってきた伊藤、陸奥の信頼関係が背後にあり、情勢を先へ先へと読んで、事前に閣議の了承をとり、

 

 

事態が起きると直ちに既定方針に則って即断即決できるようにしておいた陸奥の周到さがある。

 さらに、後世の立場からみて驚くのは、できあがった公文書の内容に隙かなく、かつ文意暢達なことである。

 今の外務省で、これだけの内容の仕事を、これだけの速さで仕上げるのは、難しい、というよりも、まず不可能といってよい。

 

 

課長レベルから協議を重ねて積み上げていく方式では、とても間尺に合わないし、また、これだけの名文も出来上がってこない。

 おそらくは.陸奥自身が筆を執り、あるいは口述したのであろう。

 

 

あるいは徹夜をしたかもしれない。それが陸奥の健康を蝕んでいったことは想像に難くない。

しかし、陸奥がこうやって事態の進展を速めていったことは清国側の対応を次々に後手後手と回らせる効果があっただけでなく、

 

 

開戦後の軍の速やかな連戦連勝と相まって、ロシアが極東の戦備を増して干渉の準備を完了する前に、わが方の既成事実を作るのに貴重な時間を稼いだのである≫

外務省のみにとどまらず、現代日本の官庁組織は、担当正面が拡大すると共に、問題内容が必ずしも明確ではなく、“グレーゾーン”が増えているから、担当部局も明確にされにくなり、当時のような即断即決は難しいだろう。

更に内容によっては、その部局の長が「俺は知らされていなかった!」とむくれる傾向も強く、どうしても時間がかかるから、岡崎氏が言うように、とても間尺に合うはずはない。

 

 

しかし、平時の“難題解決”ならばいざ知らず、ことによっては取り返しのつかない事態を招くものもあるのだから、形式的措置は多分に問題を含んでいると言える。

 

 

この拙速を尊ばない外交も“軍事無視”に起因すると思う。

 さて次はロシアに代わって英国が登場してくる。

 

 

「十 英国の干渉―――後顧の憂いを払い、戦争へ突入」の項にも外交上の大きな教訓が含まれている。

≪英国からも干渉は来た。しかし、それはもともとロシアの干渉とは違うものだった。

 ロシアの干渉は、将米、シベリア鉄道も完成し、ロシアの極東侵略態勢の準備が整う前に、ロシアが野心を有する地域に日本が先に唾をつけるのを排除しようという意図があった。

 それに対して、イギリスの場合は、既得権益が影響を受けるのを心配しての現状維持派であり、「蹇蹇録」には、「徹頭徹尾何らかの原由を問わず東洋の平和を擾乱せざることを切望し居たるものの如し」

 

 

(徹頭徹尾、理由が何であろうと、東洋の平和がかき乱されることを望んでいないようであった)と記している。

 したがって干渉の方法も、ロシアのように将来の利益を守るためにいろいろロシアの態度を留保しておくというものではなく、外交官としての職業意識に徹した日清間の調停の努力であった≫

 やはり岡崎氏も書くように、ロシアと言う大陸国の外交は、如何にも“コズルイ”処がある。

 

 

これが日本人とは性が合わない処であり、昔から嫌われてきた国民性なのであろう。

 

 

それに対して英国は、世界を支配しただけのことはあって、経験も豊富で信頼がおけるところがある。若干、おせっかいなところもあるが…

≪六月三十日、北京駐在・オコナー英国公使は、まず清国の総理衙門(総理府)を訪問して、清国政府が朝鮮の内政改革と領土保全の二つの条件を承認すれば、英国は各国と共同して、日本に撤退の圧力をかけてみようと打診した。

 朝鮮の内政改革という日本の主張も取り入れた妥協案である。

 

 

清国政府は、この程度の漠然たる提案ならまあよいだろうと、清韓の宗属関係に変化がないならよい、という条件で合意し、ここで英国の調停が始まった。

 日本は、第三国の干渉は排除するという基本方針はあるものの、朝鮮の内政改革を認める案を出されては無碩に断ることもできないため、

 

 

英国の調停を受け、在北京の小村寿太郎・臨時代理公使を総理衙門に接触させた。

 しかし.七月九日、小村公使が総理衙門に行ってみると、清国側は.「日本がその軍隊を朝鮮より撤去するの後に非ざれば何らの提議をなす能わず」(まず日本が朝鮮から撤退するのでなければ、解決案の提案もできない)の一点張りである。

 

 

小村は、これ以上議論の意味もないと考えて引き掲げ、帰りにオコナー公使に会って話が違うではないかと抗議した。

 そこで十二日に、オコナーは総理衙門を訪れる。

 

 

すると、清国側は前言を翻し、「まず撤兵したうえで協議する」という条件だけはここで明言できるが、その他の条件は、その場その場で諾否を決めるという態度まで後退して、そこから一歩も出なかった。

 王芸生は、「この一場の会談を見るだけで、総理衙門がいかに外交に通じなかったかがわかる。

 

 

せっかく好意の調停を始めた英国公使を全く失望させ、ますます日本に口実を与えた」と慨嘆している≫

 しかし肝心の清国の方が、更に民度は低い。とても先進国と対応できる組織とは言えない。

 

 

現在、GDP世界第2を“誇る”中共政府もこの当時と似たり寄ったりだと私は思っているが、身なりと軍備が先進国並みに“進化”したことが幸いしたか、列強国民から“一目”置かれているのが不思議で何とも胡散臭い。

 

 

とりわけ我が国は、金に目がくらんで“満州進出”と同じく市場開拓に乗り出し、それが裏目に出て「敵に塩を贈る」結果を招いたが、陸奥が知れば何と云ったろうか?(元空将)