◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 635」
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引き続いて、「九 ロシアの干渉?――国家の運命を左右する陸奥の即断即決」の項目に入る。
≪陸奥は、この機を逃してはならないと、伊藤との会談の翌七月一日にロシアへの回答案を書きあげ、閣僚と協議のうえ、直裁を得て、二日には公文をもってロシアに回答した。
慨要は、以下のようなものだった。
【口語訳:ロシア側の公文は、大変重要なことなので、じっくりと検討しました。
ただしこの公文の中に、朝鮮政府は内乱が鎮定した旨、各国公館に通知したとありましたが、日本政府が最近受けた報告によれば、今回の事変を醸成した根本原因はまだ除かれていないだけでなく、今回日本軍の派遣を必要とした内乱もまだ後を絶たないようです。
そもそも日本が朝鮮に出兵したのは、こういう状況でやむを得ず出兵したもので、決して領土を侵略するためではありません。
もし朝鮮の内乱がまったく平穏になり、将来も心配がなくなれば、もちろん撤兵することは明言いたします。
日本政府は、ロシア政府の友好的な勧告に篤く謝意を表すと同時に、現在、幸いに両国間に存在する信頼と友好関係の上に立って、日本側が明言するところをロシア側が十分信頼されることを希望します】。
言辞は極めて丁重なものの、「今回の事変を醸成した根本原因」とは朝鮮の内政の紊乱であり、換言すれば、内政改革が遂行されるまで撤兵しない、ということである。
つまり実質的には、ロシアの提案の拒否である。
これに対して、ロシアがどう反応するか心配しながら待っていると、七月十三日に次のような回答が来た。
「露国皇帝陛下は日本皇帝陛下の政府の宣言中において、朝鮮に対して侵略の意なく、かつ該国の内乱全く平穏に復し禍乱再発の虞なきに至れば、速やかにその軍隊を該国より撤去すべしとの意思なるを認め、大いに満足せり。
但しこの上は日清両国政府の間速やかに協議を開き、平和の局を一日も早く結ばれんことを切望す。
而して露国皇帝陛下の政府はその隣国たるの故を以て、朝鮮国の事変はこれを傍観する能わずといえども、今日の場合は全く日清両国の葛藤を予防せんとするの希望に出でたるものなることを了解せられたし」
(ロシア皇帝陛下は、日本がその宣言の中で、朝鮮に対して侵略の意図はなく、また内乱がまったく平静に復し、再発のおそれがなくなれば撤兵する意思であることを認めて、大いに満足しました。
ただ、この上は、日清間で速やかに協議して、一日も早く和平を結ぶことを切望します。
ロシアは隣国なので、朝鮮の事変は傍観するわけにはいかないのですが、今回の場合は、日清間の紛争を予防しようという希望から出たことであることは了解をいただきたい)
これで、開戦に対するロシアの干渉は去った。
ロシアの隣国だとか、傍観できない
とか、将来の干渉の余地を残す言辞は不気味だが.当面、日清間に任せるといったのてある。
今後は、ロシアはおさおさ怠りなく極東に事態を注視する一方、ヨーロッパに配備している軍隊を極東に回航させるなど、
介入のための実力を涵養して、必要とあればすぐに介入してくるのであろうが.当面の開戦には反対とは言っていない。伊藤、陸奥の賭けは成功したのである≫
ここに外交交渉の実態が覗える。ロシア政府は、日本側の回答案が、これほど速やかに出されるとは考えていなかったのではないか?
而も慇懃無礼な表現の中に“毅然たる決意”が感じられるから、この様な“紳士的な”回答がロシアから来たのだと思われる。
更にその背景には軍事力が大きく影響したであろう。
ロシアの当面の戦略的正面は西であって、東には戦力を割く余裕はなかったのである。
ここで思い出すのは、日独伊三国同盟が結ばれ、ロシア(ソ連)が腹背に脅威を感じた時の外交交渉である。
西のドイツは最大の脅威だが、さりとて東の日本も油断ならない。
そこでスターリンは、生まれたばかりのソ連邦の安全を確保するため、1934年2月に英ソ新通商条約を、翌年5月に仏ソ相互援助条約を締結、スターリン憲法樹立後には中ソ不可侵条約、1938年ポーランドとの不可侵条約を更新し1939年5月に独ソ不可侵条約を締結するが、
9月にはポーランド東部を占領し、一気にフィンランドに攻め入ったので、国際連盟から除名された。
にもかかわらず我が国は、バルト3国に侵入し、ルーマニアの一部を占領した“侵略国”ソ連と、1941年4月に「中立条約」を締結しているのである。
こうして東の脅威を封じたソ連は、ドイツとの戦争に踏み切ったのだが、この間の粗末な日本の対ソ外交交渉を陸奥が見たらどう思うだろうか!
しかもその時締結した「中立条約」を信頼したわが国は、スターリンの罠にはまって米国と開戦、戦況不利となって追いつめられるや、
こともあろうに米国との終戦の仲介を“侵略国家”・オ桴n△飽様蠅垢襪噺世Α⊃・犬蕕譴覆す堝阿暴个襪里任△襦
そして8月9日に“その中立条約”を踏みにじったソ連に煮え湯を飲まされたのであった。
岡崎氏は、当時の日ロ間の交渉等に関して次のように書いている。
≪日清戦争の全局を通じ.陸奥の決断の速さ、仕事の速さは驚くべきものがある。
六月二日に清国出兵の内報を受けるや、その日の閣議で日本の出兵を決め、その晩に川上操六中将と出兵の手筈を決めている。
伊藤が考え出した朝鮮の内政改革案について、清国が拒絶の同答をしてきたのが六月二十一日だが、翌二十二日には.清国側の論点を一々論駁し、
最後に「本大臣はこのように胸襟を開いて、心から思っていることを述べているのであるから、たとえ清国政府と意見の違うところはあっても、日本は断じて現在、朝鮮に駐在する軍隊を撤去することはできない」と結ぶ、長文のいわゆる第一次絶交書を手渡している。
いわゆる第二次絶交書も、北京における英国の調停が失敗したと聞いて、間髪を入れず発出したものである。そして、七月一日のロシアの干渉に対する回答も、翌二日に発出している≫
陸奥の即断が賞賛される背景には軍事と外交の密接さがあったのである。(元空将)