佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 632」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 632」

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≪(承前)七 朝鮮の内政改革案は道具――陸奥が見せた冷徹なリアリズム

 列国や朝鮮政府は、まずは日清両国が相互撤兵をするのが穏当だと考えていた。

 

 

そうした中で陸奥や伊藤が朝鮮改革まで撤兵しないと言って押し通せたのは、日本世論の強い支持があったからだった。

【口語訳】日本の独力でも朝鮮内政改革を担当すべきだという清国への提案が世間に明らかにされると、わが国の議論は、朝野を挙げて見事に一致して支持した。

 

 

彼らの主張は、おおむね、朝鮮はわが隣国であり、わが国は多少の困難があったとしても隣国との付き合いからこれを助けるのは義侠心に富む国として当然だというものだった。

 また、その後、戦争が起こった時は、強きを抑え、弱きを扶ける仁義の戦争を起こすのであると言い、勝ち負けさえ度外視して、この外交問題を、政治的必要からではなく道義的必要から出たもののように論じた】

しかし、陸奥は、きわめて冷徹であった≫

 明治の開国期、“富国強兵”と言う言葉に代表されるように、わが国の朝野は纏まっていたことが判る。

 

 

そしてそれを支えたのは世論であったが、それをリードしていたのは当時のメディアだった。

 

 

今とは打って変わって、当時のメディアには、日本人としてのアイデンティティが健在だったのだ。

≪【口語訳】私は、もともと、朝鮮内政の改革は、政治的必要の外は何の意味もないものと考えていた。

 

 

また、いささかも義侠心から十字軍を起こす必要を感じなかったので、朝鮮の内政改革は、第一にわが国の利益を主眼とする程度にとどめて、そのためにわが国の利益を犠牲にする必要はないと考えた。……

 私は、初めから朝鮮内政の改革自体についてはとくに重きを置かず、また朝鮮のような国柄が果たして満足な改革ができるかを疑っていた。……

 しかし、わが国の世論が一致してこれを支持したことは、内外政策にとってすこぶる好都合だと思い、これを日清関係の曇天を一変して、一大豪雨を降らせるか、一大快晴を得るかの手段として利用しようとしたものである。】

陸奥は、冷徼なリアリズムで、日本国内の世論の動向を捉えていた

 

 

王芸生が、右を引用して「夫子(ご本人)自ら、明らかに日本政府の意図を野心的に表明している」と評したのも当然である。

 偽善的とさえいえる赤裸々な文章であり、日本のような感傷的風土では、稀に見るドライな文章である≫

 この岡崎氏の「赤裸々」と言う指摘と、わが国の「感傷的風土」と言う表現は非常に面白い。

 

 

これを現代に置き換えれば、現代外交官には「赤裸々な表現」をする者がいなくなったということであり、逆に政府を追及するのが使命だ!と勘違いしているメディアは、「感傷的過ぎて」至る所で女々しい態度を続けている…と言うことになろうか?岡崎氏はこの章をこう締めくくる。

≪日清戦争は陸奥が苦心惨憺して開戦にこぎつけた戦争であり、朝鮮の改革は戦争に持ち込むための口実に過ぎなかった。

 

 

平和主義に至上の価値観を置く戦後の日本の風潮

 

 

民族自決を大原則とする戦後世界の思潮からすれば、許し難い行動である。   

しかし歴史は、その時代を生きた人の価値観で理解すべきであり、現代の、せいぜい二十一世紀百年間だけに存在する価値観で判断すべきものではない。

 すでに述べたとおり、帝国主義時代の人々を帝国主義的と批判するのは、中世の人を、中世的あるいは前近代的と批判するのと同じで、歴史の理解に何の役にも立たず、時間のムダである。

時代は帝国主義の真っただ中である。清廷の中では、この際朝鮮支配を強め、その上で、沖縄併合を問責して、日本を攻撃する政策も進言されている。

 

 

一瞬の油断がどういう結果を生むか分からない。

 

 

また、日清戦争の勝利が無ければ、十年後の口シアの南下に対しては、日本は到底抵抗できなかったであろう。

 

 

日本はギリギリのタイミングでロシアの侵略を免れたといえる。

日清戦争を戦い抜いて、帝国主義競争に勝ち残り、大国の植民地でも、半植民地でもない日本を残してくれた明治の人々にわれわれは感謝しなければならない。

現在われわれ日本人が享受している豊かな生活、高い教育技術水準は、帝国主義時代を生き抜いてくれた明治の人々に負うところ少なくない≫

この岡崎氏の指摘と感想には全く同感である。この記述は、明治27年(1894)陸奥が51歳の頃の出来事を既述したものである。

この当時の官民合わせた日本人の心意気に比べると、大東亜戦後の日本人は、大東亜戦争に“一度”負けただけで、精神的植民地に成り下がった感がある。

日清戦争、日露戦争を経て、世界の列強国としての地位を確立した日本が、そして陸奥のような合理的判断が出来る人材を持つ日本が、それから40年すると、政・軍・官界揃ってこのような毅然とした外交がどうして出来なくなったのか?

日本人が持っていた「心意気」が、何によって、どのように変化していったのか?

余程の変化がなければ、日米開戦に突き進むような愚かな判断を下すはずはない、と思う。その遠因はどこにあったのか?

次の第2章「列強の干渉」の項に入る前に、岡崎氏は次のようなコメントを書いている。

「断りもなく、勝手に手を出すな」という干渉は、帝国主義時代の列強の“作法”であった。

 

 

干渉を排除するか、受諾するか……ここが外交手腕の見せ処だった」

そして「蹇蹇録」は第8項「ロシアの干渉?・・・・・・伊藤・陸奥、開戦外交の最大の山場」の項に入る。

 

 

これから諸外国(列強)の狡猾で排他的で、力を背景にした外交との戦いに入っていく。(元空将)