◎佐藤守 「大東亜戦争の真実を求めて 629」
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≪(承前)壬午、甲申では清国の派兵に機先を制せられた。もともと日本から朝鮮に派兵するには清国よりも三倍以上の時間を要する。
今回は、その日本の地理的不利を克服して、清国の機先を制することに、陸奥は肝胆を砕いたのである。
清国の機先を制するには、このくらいの敏速な措置が必要であり、陸奥はそれを冷静、ち密に実施したのである。≫
この処置もまた、軍事的素養がなければ実行できない。
常に“敵の行動予測”を分析して想定し、わが方の行動計画に盛り込むことは、軍事のイロハである。
明治時代の外交官たちには、常に“戦う”意識があったのだ。
たとえ天下泰平の江戸時代末期に青年期を過ごしたとはいえ…。
≪「蹇蹇録」によれば、それは外部には秘密だったので、世間はこの動きを知らず、政府反対派は、朝鮮派兵が急務であることを痛論し、しきりに政府の怠慢を攻めていたという。
こういう世論があることが陸奥の行動を楽にしていたのである。
その結果、大島公使は早くも六月九日に仁川に到着して海兵三百余名を引率して京城に帰任した。
ついで、第五師団から派遣した一個大隊の陸兵が京城に到着、その後、混成旅団七千名が続々と到着した≫
この部分も、現代の外務省と防衛省と言う区割りが確定した官僚たちには理解できないに違いない。
あれほど騒がれたPKO実施においても、この様な“連立行動”が報じられなかったことがそれを物語っている。
尤も、若い外交官たちの中には、現地で各国の軍人たちと密接に情報交換し、自衛隊を支援していたものもいたことは事実だが…。
戦後『軍事を放棄した』国家らしく、組織としては不十分だったことは否めなかった。
≪ちなみに、この混成旅団の派遣については、河上壮六参謀本部次長が、伊藤をだまして、「1個旅団を派遣する」と言って二千名程度の派兵の印象を与え、実は、八千名にも膨らみうる混成旅団を派遣したという話がある。
一個旅団というのは、平時には二個連隊約二千名に若干のプラスを加えたものである。
連隊は、師団の一部であり、それだけでは単独に動けないので、これを独立の単位とするに、補給、運愉、通信の装備や要員、そして若干の重火器などを足したものが旅団である。
混成旅団となると、さらに種々の能力をつけ足して、師団に近いさまざまな能力を有してはいるが、完全な師団とは言えないので、まだ旅団という名前が残っている部隊である。
つまり、伊藤に対して、「二個連隊プラス」の印象を与えて、実は「一個師団マイナス」を送ったということである。
しかし伊藤も陸奥も、当初の迅速大量の兵力派遣をはじめとして、開戦の際の軍の措置に何も文句を言っていない。
たとえ伊藤が騙されたと知っても、「川上の奴め!」と苦笑した程度であろう。
現に、これが朝鮮半島における日清の軍事バランスに決定的な影響を与えている≫
この部分は、現代のわが国の外交と防衛の連携に欠陥がある事を浮き彫りにしているように見える。
恐らく“縦系統”の組織が確立して硬直している現在は、双方の組織のトップがこのような“腹芸”をするとは到底思えない。
政府機関自体が小粒になったのである…。尤も現状の自衛隊の「旅団」と、小粒だとは言え「師団」編成の差を熟知しているのは制服組以外には居るまいが…。
≪問題は、むしろ、日本の大兵が朝鮮に着いてからだった。
着いて見ると、それまでの東学党の民衆が跳梁を極めた状況とは打って変わって、京城や仁川辺りは意外に平穏だった。
南部の反乱軍鎮圧の戦闘では、清兵の後詰が来たというだけで、朝鮮の官軍の意気は大いに上がり、全州城も奪還し、牙山の清軍の出動を待たずに事態は収拾されつつあった。
そこに七千余りの日本軍がやってきたのはいかにもおかしい。陸奥は次のように描写している。
【口語訳】日本の軍隊は、朝鮮においてもよく規律を守り秩序正しく少しも民衆から略奪などをしなかったことは、外国人などには驚嘆をもって受け止められたが、
軍人はいかに平和的に行動してもやはり軍人であるから、京城、仁川の間に約七千人余りの軍隊が滞陣するのは、外人の眼にははなはだ異様に映り、疑念を抱かせた。
外人達は、仁川や京城付近で日夜、多数の日本兵の姿を目撃していたが、清兵は牙山にいるので外人の耳目に触れない。
従って、日本政府の出兵の大義名分や真意とは関係なく、日本は平地に波瀾を起こし、機会があれば朝鮮を侵略する意図があると想像した。
そして彼等は、日本に対するよりは、清国の方に同情を表し…】。
清国則は袁世凱が主導して、東学党の乱を機に「好機逸すべからず」と、朝鮮や本国を説得して出兵にこぎつけたのであるが、日本軍の迅速、大量の出兵を聞いて
「しまった」とほぞをかんだ。そこで、今度は、朝鮮政府を通じて、日本軍の撤兵を要求させる工作に専念した≫
これが“天皇が率いる大日本帝国”の軍隊と、盗賊や、海賊たちの成り上がりで構成される軍隊との決定的な差であった。
人間には、常に自分たちの“物差し”で相手を図る癖がある。当時のシナ大陸に住んでいる外人たちもそうだったのだ。
尤も自分たちの軍隊の物差しで測る以外に手段がなかったのも事実だったろう。
外国を侵略して資源を奪取してきた軍隊しか知らない西洋人たちにとっては、東洋のちっぽけな島国の、しかも後発国の軍隊がそんな“規律正しい”軍隊であるはずはなかった。
現在、わが国を貶めて憚らない隣国の韓国やシナ、それに一部の西洋人たちの脳みそには、この当時のレベルの意識が消えていないのである。
そんな“外人たち”を説得するのは難儀なことだが、「外交」はあきらめることなく継続するのが任務でもある。「蹇蹇録」からはそれが読み取れると思う。(元空将)