◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 628」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

◎佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 628」

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≪(承前)江華島事件以後、日本は朝鮮との修好を求めたが、朝鮮は、自分の国は清国に藩属するので勝手に日本との修好はできない、といって回答を避けた。

 

 

そこで日本政府は、森有礼外務大輔を北京に送って交渉させる。

 清国は、日本の要求をそらす目的で、「朝鮮は属国といいながら、土地はもとより清国に属さず、したがって、中国はかつてその内政に関与したこともなく、また、外国との交渉も朝鮮の自主に任せているので、これを強制することはできない」と答えている。

 工芸生は、「日本はこの一言で、朝鮮は独立国であるという証言を得たとした。

 

 

その後の朝鮮問題の一切の紛糾は、皆、この一語に禍するところとなった。不謹慎なるこの一言は、深い禍根を残した」と慨嘆している。

 

 

爾後、朝鮮は自主独立の国か、日清戦争で決着がつくまで二十年にわたる日清間の押し問答が続くことになる。

 実は、陸奥は.清韓宗属関係の国際法的側而に深い関心をもち、すでに滞欧中(明治十七~十九年、陸奥四十一~四十三歳)、これを究めようとしたことは、滞欧中のノートから十分にうかがうことができる。

 それによれば、国の中に、半独立国というものがあり、宗主国との間に対等な関係を有しない。

 多くの学者は、国際法は国と国の関係であり、いわゆる半独立国はすべて主権国とみなすべきだと言っている。

 

 

一般的には、半独立国という言葉は矛盾した言葉として反対されてきている。

 オースティンによれば、いわゆる半独立国は、次の三つのどれかに属する。

!)    みずからの意思で、宗主国を受け入れている国。これは主権国である。

!)    強制されて、そうしている国。これは宗主国に従属している(主権国ではない)。

!)     主権を、いわゆる宗主国とわけ合っている国。これは共同主権国である。…

ここに陸奥は、明快な回答を見出したのである≫

陸奥が並はずれた青年であったことは既に書いた。滞欧中の41~43歳の頃彼は将来あるを察し、問題意識を持って西欧の進んだ国際関係を研究していたのである。

明治維新で国外に目を向けさせられた当時の日本人は、政治はもとより、文化面においてもとことん西欧に学んだ。

 

 

戦後、経済復興を果たした後の我が日本人の多くは、誰でも軽易に海外旅行が出来るほど裕福になったからか、それとも外国に学ぶものがないと錯覚したからか、陸奥ほどの研究心を持って外国を見たものは少なくなった。

 

 

ほとんどは札束で外国製品を買うと言う、自己欲望主義が優先していた。

 少し話題がずれるが、昭和50年7月、幹部学校を卒業した私は、外務省国連局軍縮室(当時)に出向させられた。

 

 

ジュネーブにおける軍縮会議を主管するポストだったから春会期に出張させられ、国際関係、特に“軍縮”と言う軍事的駆け引きの場を学ぶ機会を与えられたのだが、

 

 

当時、ジュネーブを“徘徊する”日本人の多くは成金たちが多く、今でいう中国人の“爆買い”同様、現地で顰蹙を買っていたことを思い出す。

 

 

レンタカーを借りて周辺各地を回った時、給油に立ち寄ったガソリンスタンドで、「ノーキョーさん?」と声をかけられ日本人としての誇りが著しく傷ついたものである。

 もとより全員がそうだとは言わないが、外交官も、海外駐在員も、わが国と異なった環境下で、何かを学ぼうとする意欲はなく、ただただ任期が過ぎるのを待つか、骨董品の収集に精を出す程度の生活態度だったことを思い出す。

≪とにかく、主権国か、従属地域か、どちらかにしてくれないと国際法上、困ることになる。

 

 

主権があるなら自分の行動に責任をとってほしいし、ないのなら、宗主国が責任をとってほしい。

 

 

どっちつかずで、場合によって都合の良いほうの立場をとられては困るのである。

 こうして分類してみれば、朝鮮は純然たる独立国でしかないという立場を陸奥が押し通す理論武装は、日清戦争から遡ること十年前に、陸奥の外遊中にすでにできていたといえよう≫

岡崎氏はこう書いているが、これが本来の外交官の使命ではないか?陸奥ほどの才能があろうとなかろうと。

続いて「五 混成旅団は徴兵せず=外交では受け身、軍事では機先を」の項で岡崎氏はこう解説するのだが、これこそ軍事と外交が密接だった実例であろう。

≪この時の、日本政府の行動の敏速さこそ、史上まれな陸奥の判断の冴えと行動力を表したものである。

 清国が韓国派兵を日本に通知するのは明治二十七年(一八九四)であり、そこで日本は、天津条約にしたがって出兵の権利が生じるわけであるが、日本が秘密に出兵を決定するのはその五日前の六月二日の閣議である。

 当時大島公使は帰朝中であり、杉村濬が臨時代理公使を務めていた。

 すでに述べたように、杉村は、自ら希望して外務省に勤務し、朝鮮政府内はじめ、袁世凱に至るまでの広い人脈を擁していた。

 さらに蛇足を加えれば、杉村の長男、杉村陽太郎は国際連盟事務局次長、駐仏大使を務め、その娘は青木盛夫アルゼンチン大使に嫁し、その子がペルーで人質となった青木盛久大使という外交官一家である。

その杉村の報告で、日本政府は、朝鮮政府が清兵の来援を要請することを事前に知っていた。

 

 

朝鮮政府から正式の要請を出すことは六月一日に決定されたが、清国に通知するのは六月三日であり、日本はすでにその前日の閣議で派兵を決定して、行動を起こしていたのである≫

フジモリ大統領に救出された青木大使は“3代目”であった。(元空将)