佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 624」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 624」

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≪(承前)このウィーンにおける勉強を西園寺が認めて伊藤に書き送ったことで、伊藤がどれだけ陸奥を見直したか、また、もともと親友陸奥を重用しようと思っていたとしても、それを容易にさせたか。

 

 

もし陸奥が、獄中でセンチメンタルな詩作に耽っていたら、そしてヨーロッパで悠々と遊学していたならば、その後の陸奥の将来はなかったであろう。

 陸奥は常に、自力で運命を切り開いていったのである。そしてその蓄積が、後日、限りない力を発揮することになるのである。

以下、陸奥がこうして蓄積した見識を持って、未曽有の国難に際していかに対処したのかを「蹇蹇録」を通してみていこうと思う≫

こうして岡崎氏の「明治の外交力」は、日清戦争当時の外相・陸奥宗光が記した回想録についての“まえがき”を終え、本題である「第1章・極東アジアの帝国主義競争」に入るのだが、

 

 

ここでは陸奥の人柄に続いて日清戦争を勝利に導いた陸奥の外交力について分析されているから、順を追って読み解いていくことにする。

タイトルは「1、外交の活写が目的――公式記録にない外交の真意を」である。

本書では、まず「蹇蹇録」の緒言、今で言えば「はじめに」が、「総て外交上の公文なるものは概ね一種の含蓄を主とし、その真意を皮相に露出せしめず。

 

 

従って単にこれを平読すれば嚼蝋の感なき能わざるもの往々にして然り」と言う文語体の原文と口語訳が併記されているが、ここでは口語体を引用して読み解いていきたい。

≪すべて、外交文書というものは、外務省の公文の記録に基づいていることはいうまでもないが、その真意を行間に潜めて、表には出さないものである。

 

 

したがって、単にこれを読んだだけでは、砂を噛むような印象は避けがたい。しかし、この書き物では、余すところなく真相を明らかにすることとしたい。

これを、たとえてみれば、公式の記録は実測に基づいて正確に等高線で書いた地図のようなものである。もし、山水のたたずまいを知ろうとすれば、そのほかに風景画がなければならない。

 この書き物の意図は、まさに、当時の外交の風景画を描くことにある。もし読者が、公式の記録と、この書き物の両方を読んで比べてみれば、いろいろと思い当たられることもあると思う。

 明治二十八年 除夜 大磯において            著者 記す

 ここで、「読む人にとって無味乾燥な外交文書の羅列のようなことはしない」と言っているのである。

 

 

この文章を見るだけで、もう、陸奥の才筆の冴えが感じられる。ただ、『蹇蹇録』は、百年以上前の文章であるので、現代人にはとっつきにくい。

 文章が文語文であるというだけでなく、書いた人の教養の背景が、現代人とは全く違うからである。

まず『蹇蹇録』という題からして、現代人には全く分からない。実は、当時でもよほど漢学の素養のある人でないと分からなかった言葉である。これは、易から出てきた言葉である。

 漢学は四書五経を原典として学ぶが、五経を極める人が最後に学ぶのが易経である。

 

 

当時の人でも易経までこなした人は少ない。佐久間象山は易を能くしたとして有名であり、陸奥宗光の父であり、儒仏和歌に長じた哲人、歴史家、伊達自得翁も易に長じていた。

 易のスタンダード・テキストは孔子が編纂したという周易であるが、その六十四卦の中に「蹇」という卦がある。

 

 

「蹇」とは、「足萎え」を意味し、周易の解釈によれば、「蹇」の卦は、足が萎えて前に進めない状況にある。

 ところが易の解釈は、その人の置かれた立場、年齢によって違う。自分が人生の途中のどのあたりに居るかを考えてから、易の卦を読まねばならない。

 易の六の二というのは、まだ人の家来である新進気鋭の身分を表す。周易の「蹇」の六の二の解釈では、「王臣蹇蹇 躬の故に匪ず」とあるだけで、退けばよいとか待つのがよいとか、進退の吉凶には触れていない。

 

 

なぜかといえば、王の臣として職分を果たすのであり、自分のためにするのではないから、形勢の良し悪しを考える必要はなく、ただひたすら献身的努力をすればいい、という意味である。

また、孔子による注釈といわれる象伝によれば、「王臣蹇蹇、終に尤なきなり」とある。すなわち、成功や失敗は問うところではなく、たとえ失敗しても咎めるべきでないという意である。≫

わが国の外交の“実態”を見極めんとして、明治初期からの外交の実例を学ぼうと、岡崎氏の著「明治の外交力(蹇蹇録)」に取りついてみたものの、四書五経と易からはいるとは想定外であった。

 

 

しかし、これは日本人の精神の根底にあるものとして、避けては通れないものであろう。

 

 

特に明治維新後の近代化の過程で、これら漢学の原点がどのように変遷していったのか?を知ることは、大東亜戦争に結びつく重要な手がかりかもしれない。岡崎氏は続ける。

≪諸葛孔明が、後出師の表の結びで、「臣鞠躬尽力(力のかぎりを尽くす)、死して後やむ。成敗利鈍(うまく行くかどうかは、臣の明(判断力)の能く逆覩(将来のことを見通す)するところにあらざるなり」と言っているのと同じ精神である。

この「蹇蹇」という言葉を、なぜタイトルとしたのか≫

 そこには陸奥の置かれた立場が「明日をも知れぬ逆境」にあったからである。

 

 

そしてそこには彼の並々ならぬ愛国心があったのであり、そのような局限下においても、今風に言えば絶対にブレない確固たる信念があったからであろう。

この時点で昭和初期の外交官との決定的違いが浮き彫りになってきた。(元空将)