【知道中国 1638回】――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山4)   | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1638回】                  
  ――「独逸の活動心憎きまで?溂たるものあるを感じた」――(米内山4)
   米内山庸夫『雲南四川踏査記』(改造社 昭和15年)


   ▽
さて米内山に戻る。「七月十七日、午前七時三十分、河口發」で昆明を目指す。

  「汽車は南溪河に沿うて次第に登る」。「沿線の風致は奇觀であつた。

 

 

南溪河に沿うて進むと、山はだんだん高くなる。左側は、車窓近く面に突つ立つやうな崖つゞきであり、右側は、南溪河を隔てゝ佛領東京を望む」。

 

 

鉄道は河面から「約百二三十尺も高い山腹を崖を切り巖を突き抜けて進んでゐる。その崖の縁をカーブするときなど危なくてはらはらする」。木のない「山また山の間を隧道をくゞりくゞりながら進んで行く」。

 

 

「隧道は頗る多く」、また「隧道のほかに切通は無數にあつた。これに依つて見ても、この鐵道の建設がいかに困難であつたかゞ想像せられた」。それほどまでしても、フランスは雲南を攻略したかったということだ。

 「かうして汽車は溪谷を渡り山腹を廻りめぐつて登つて行く。だんだん高くなり、車窓に白雲去來してゐた」。やがて最初の目的地である蒙自へ。

  雲南省の地図を眺めて見ると、南部にはミャンマー、ラオス、ヴェトナムとの国境一帯に孟甲、孟連、?海、大?龍、蒙自など、「孟」「?」「蒙」などの漢字を冠した地名が多く見受けられる。

 

 

これら漢字は声調は違うが、mengで表記される音を持つ。タイ語では小さくは集落、大きくはクニをmuangと呼ぶ。

 

 

「孟」「?」「蒙」を冠する地は、かつてタイ族が居住していた一帯ということになる。

 

 

muangが転じてmeng、つまり元来はタイ族を中心とする少数民族が居住していたのだが、“熱帯への進軍”を繰り返す漢族によって消滅させたれたか、あるいは奪われてしまった土地ということになる。

 

 

「孟」「?」「蒙」が冠された地名からは少数民族の悲哀が聞こえて来る一方で、他民族を呑み込んで進む漢族肥大化の痕跡を認めることができるだろう。

  いよいよ蒙自着。ここには「帝國大學理學部の委嘱を受けて鳥獸採集のため出張中」の折居と「日本雜貨を賣つてゐ」る和田輝吉の両名が住んでいた。もちろん米内山は両氏を訪ねることになる。

 「蒙自で目立つことは、何といつても佛蘭西の勢力で、支那の海關の税務司も佛蘭西人であり、外國人としては佛蘭西人が一番多く」、街を囲む城壁の東側は「佛蘭西の居留地になつて居り、佛蘭西の領事館を初め佛國郵便局、學校、病院」があった。

 

 

不思議なことにギリシャ人経営の店舗のあったとのことだが、やはり「支那語の上手な佛蘭西人が多」かった。

 

 

米内山の目に蒙自は「思いのほか小さい町」と映ったようだが、どっこいスランスはしっかりと根を張り、雲南攻略のために築いた橋頭堡だったことが十分に窺える。

  蒙自を発って昆明に。途中の阿迷という街の「同じ宿に李全本という支那人が宿つてゐた。

 

 

大理の人で岩倉鐵道學校の學生だといつてゐた」というから、なんとも奇遇というものだ。雲南省の山間の寂れた街の安宿で、上海で学ぶ日本人と大理出身の「岩倉鐵道學校の學生」が同宿するとは。

 

 

おそらく彼らは、片言の日本語と中国語で「我是上海東亜同文書院学生」「ワタシ、岩倉鉄道学校学生さんアルヨ」などと会話したに違いない。

  米内山は各地の衙門に知県など地方官吏を訪ねるが、「二十年ほど前に日本にもゐたことがあるといつてゐた」者や「京都の織物を持つてゐないかといつてゐた」者もいたというから、雲南の片田舎ながら日本と交流していたようだ。

 

 

さて鉄道開通以前、彼らは南溪河から紅河を河内(ハノイ)に下り、海防(ハイホン)で乗船し日本に向ったのだろうか。

  再び汽車の旅だ。「山はまた高くなり、松樹鬱蒼と茂つてゐた。それからしばらく深山の中を走」る。

 

 

やがて「深山盡き、間もなく平地となり、河の流れも緩く河幅も廣く、百米位にも達し、水量も増して小舟を通じてゐた」。いよいよ昆明。雲南省省城である。
《QED》
       ▽□◎ひ▽□◎い□▽◎ず□◇◎み▽□◎