奥山篤信の映画批評93 アメリカ映画『フューリー FURY』2014 | 護国夢想日記

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奥山篤信の映画批評93 アメリカ映画『フューリー FURY』2014
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~あほな男や。せやけど、わいはこういう生き方しかでけへんのや~

ハリウッド映画を馬鹿にしても、やはり往年の西部劇は観客を魅了するものがあった


最近新しい西部劇が上映されることは稀になってしまい、寂しさも感じるのだが、この映画は戦争アクションだが、あの西部劇を彷彿させるもので、久しぶりにハリウッド映画の素晴らしさを満喫した。

物語の背景は1945年4月、第二次世界大戦・ヨーロッパ戦線の終結4週間前たった一台の戦車で300人のドイツ軍部隊と渡り合った5人の兵士たちの姿を描いた戦争アクションドラマ。


おまけに切ない占領地での青二才とドイツ美女との悲恋も描いていてわさびが聞いている。

元軍人というであるからこそデヴィッド・エアー監督が、米軍のM4中戦車シャーマンとドイツ軍が誇る最強戦車ティーガー131が激突するバトル・アクションを、圧倒的な臨場感と独創性にて映像化している。


実際Tiger 131 を戦車博物館から史上初めて映画として借り入れ走行可能の状態に復元したものを使用したのである。

映画の題名の『フューリー FURY』とは、“怒り狂う”と言う意味だが、これはベルリン陥落を目指して向かうアメリカの戦車の名前だ。


これは戦車隊長が自分で命名したものであり、ナチスドイツのむごたらしい非人間的な残虐性に怒りを込めて命名したものである。

戦車は、運命共同体としての閉ざされた密室の共同体でもある。ちょっとした手違がこの運命共同体を全滅させるか、まさに生死を賭けたそれぞれの役柄分担がある。


この映画はまさに一癖二癖ある5人の集まりであり、そこには確執があり、そしてそれを超越した男の団結がある。


その人間模様を描くところに、あの黒沢明監督の『七人の侍』を連想してしまうのだ。


とくに5人の精鋭の一人が戦死し、その代わりに補充されたのが、全く役立たずの<平和人権主義者>の新兵であり、人殺しを忌み嫌い、これはと言うときに銃弾を発射できず、これはと言うときに全身火だるまの同胞を見殺しにしてしまう。

この新兵を残酷なまでに鍛えあげ、そしてその残酷さを超越した愛の眼差しで育てるのが、ブラピことブラッド・ピット扮する隊長である。

ナチスに対する怒り、それはいたいけな少年まで総力戦で動員し、それを拒絶する親達を見せしめで電信柱に縛り首でつり下げる残酷さへの怒り、それがナチス憎けりゃドイツ兵まで憎いと戦時法を無視して、捕虜を処刑する凄まじいFuryに駆り立てるのであり、この<平和人権主義者>の新兵に理不尽な処刑をやらせるほどの鍛錬をするのである。

新兵が叫ぶ<僕は平和が理想なのだ>そしてブラピが答える<歴史は残酷なのだ>まさにキリスト教が表面的に答えることができない<「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」マタイ福音書5:39>の非現実性があるのだ。

最後ドイツ兵300人を目前として、隊長は<生き延びたいのは逃げろ。


しかしこの戦車は俺の家同然である。最後までこの戦車で闘う>と言う。まず真っ先に隊長と一緒に闘うと申し出たのが<平和人権主義者>の新兵だった。


そして二人三人結局五人総員で闘うことになった。これこそ男ならではの生き様であり男の美学と言える。


あの鶴田浩二主演の任侠映画『総長賭博』の台詞<あほな男や。せやけど、わいはこういう生き方しかでけへんのや>まさにこの任侠心が日本のみならず、アメリカの男の世界にもあることが嬉しい!

それにしても世界の映画賞無冠のブラッド・ピットがこの映画で最高の男の美学を演じている。あの二枚目の女たらしのしまらないルックが、まさに男の渋みと忍耐の美を抑制された演技で見事に演じているのだ。


僕は来年アカデミー賞主演男優賞にこの演技が評価されることを切に願うものである。