奥山篤信の映画批評81 ルーマニア映画『私の息子Pozi?ia copilului』2013 | 護国夢想日記

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奥山篤信の映画批評81 ルーマニア映画『私の息子Pozi?ia copilului

』2013 ~過保護な母親の愛情が劣等感を育てる アドラー心理学~ 月刊日本9月号より

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  ハリウッド映画の娯楽性や商業性には鼻につくが、それほどでなくとも映画先進国のフランス・イタリア・スペイン・英国にはない、味わいのある映画を作るのはイラン・トルコなどイスラム圏や東欧圏の映画であり、僕はそれを<辺境国映画>と定義している。


  その特徴は辺境だからこそ、家族の絆や村社会の掟の制約の中に、先進国に失われた、人間や家族などの本来の素朴な真心が存在する素晴らしさがある。


  この映画もルーマニアという共産主義にとことん蝕まれた後遺症のある、まさに<辺境国映画>といえる。間違いなく僕の本年度公開映画のベスト5に入るだろう。


 この映画は2013年第63回ベルリン国際映画祭にて金熊賞を受賞した。監督は1975年ルーマニア生まれのカリン・ピーター・ネッツァー、そして主人公の母親にはルーマニアの代表的女優ルミニツァ・ゲオルジウが熱演している。

  ルーマニアは、自主独立共産主義路線として25年間君臨したチャウシェスク政権が1989年崩壊した。アンチソ連の独自路線といっても、その内実はソ連より悪質な<チャウシェスク王朝>によるネポティズムの恐怖政治であった。


  一切の自由を抑圧された国民は、この間無力感のなかでニヒリズムに陥り、その病を引きずっており、王朝崩壊後の民主化は形ばかりで、真の民主主義は根付いておらず、そこには無気力と物質主義の土壌がモラル無き汚職社会の土壌を醸成しているのだ。

  この映画はそんな現代のルーマニアの後遺症を象徴するかのような映画であり、子供をひき殺した息子とその母親そして息子の愛人、それと被害者家族、それを取り巻くルーマニアの病理とも言える汚職に染まった警察や官庁の世界を描いている。


  母親は有名建築家として財を築き、官庁関係の父親とハイソな暮らしをしている。息子はその母親に甘やかされ、自立できず、責任感も自己決断もできない精神不安定者である。我が国もこういう類いの青少年が増えており笑えない。

 その息子が貧困家庭の子供をはね殺してしまった。それも高級車に追い越され追い越し返すといったカッカとした自己抑制不可能の結果の事故でもあった。


 過保護の母親は直ちに行動を開始、ハイソのコネを使い現場や裁判所、病院など丸め込むため、さらには証人の偽証まで裏工作を淡々とこなす。


 そして最も難関の被害者家族へ<誠意を込めた>丸め込みを企むが、肝心の息子は当事者意識もなく逡巡する….

 息子を守り通したい母親の愛はある意味では普遍的・古今東西の真実である。むしろこの映画の母親の的確な処理、そこには日頃気に入らない息子の愛人を説得する場面や偽証を依頼する場面を含め、見事な母親の愛に満ち満ちているのである。


 政治力や手練手管に秀でている人物は、実はそれ以上の人間としてのスケールの大きさがあり、実際に<芝居>を離れて人間の核心に触れ合おうとする誠意が備わっているのも世の常である。


 この世の中で、極論すれば<聖人君子>風善人など、実はひとかけらも誠意もない人間味もないものが大多数である。<善人>ほど信用できず頼りにならないものはない。だからこの母親をマザゴンとかたづけるのは余りにも浅薄な批判でしかない。

 ラストの見せ場が感動的である。それは肝心の被害者両親と面談にも拘らず、息子は母親と謝罪に行く勇気もなく、結局車で待機していた。


 母親を送り出し門に呆然と佇む被害者の父親を見て、ついに車から降り(キリスト教用語でメタノイア)、父親に謝罪に向かう、見違えるような品位に満ちた息子の姿である。


 映画は車のバックミラーだけで、その二人の交わす会話が何であるかわからない、しかし、そこには明らかに赦しと和解の感動的な姿があるのだ。

 そして映画はクレジット、普通の僕ならここで席を立つのだが最後まで字幕を見つめた。何とも言えない余韻がそして、救いともいえる人間愛が心に染みるのだ。

 腐敗したそして物質主義に渇ききった現代ルーマニア社会の縮図を描くこの映画は、まさにルーマニア国家の国民の和解と再生を願ったものに違いない。

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