奥山篤信の映画批評 102 トルコ映画<雪の轍> 2014 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

奥山篤信の映画批評 102 トルコ映画<雪の轍> 2014

~こんな完璧で成熟した映画がトルコ監督によるものとの感動が全てだ!~



これほど感銘した映画は人生でも珍しい。しかも僕の聞いたことも無いトルコの監督による映画だ。映画はなんと3時間16分の長丁場、こんな長い映画も近年稀で、二回に分けてみようかとも考えたが、結局引込まれ一気に全編を見た次第だ。



さてこのトルコの監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(Nuri Bilge Ceylan)1959年生まれで、日本でかって上映されたことは一度もないと思うが、なんと2002年の『冬の街』と2011年の『昔々、アナトリアで』でカンヌ国際映画祭グランプリを、2008年の『スリー・モンキーズ』でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞。2014年には5度目の出品となった第67回カンヌ国際映画祭で『雪の轍』がパルム・ドールを受賞した。



良い作品を鑑識する力、配給元そして上映館の三拍子が揃わないと、今みたいな屑のような日本映画それにハリウッドの娯楽ものしか味わえない近未来を恐れるのは僕だけではあるまい。これでは映画界を目指す若者が育たない。その意味で僕のパリ滞在中の日本では絶対に見られない映画を見まくったことは映画王国フランスの貴重な経験である。



さてこの監督の映画を米アマゾン社に発注、昨日届いたロットで上述映画<スリー・モンキーズ>を英語字幕で見たが、監督の並々ならぬ実力を改めて確認できた。


筋は資産家で選挙立候補中の男が運転中人をはねて殺してしまう。その事件を自分の運転手に身代わり犯人として、妻とできそこないの息子生活費などと交換に自首させる。夫の服役中に妻はこの富豪の愛人となる。

9ヶ月後運転手は出所して、家の異変を感じる。・・・このドロドロした人間模様を、運転手のスラムの家を美しいカメラワークで描くのだから芸術的才能も突出しているのだ。



さて本題の映画に戻ると、この映画は、筋書きにサスペンスやスペクタクルが一切なく、大人の会話の激突の面白さが中心であり、下手な監督だったらもう退屈で30分で席を立つだろう。これが違うのだ。


登場人物はカッパドキアを舞台にホテル経営をする資産家とその歳の離れた美人妻 そして小姑的姉が出戻りで居候している。それに家賃不払い(資産家は大地主なのだ)の兄弟(これが偽善者のイスラム伝導師の弟と熱血漢で妹のパンティを盗んだ男を刺して刑務所にぶち込まれ出所後失業でぶらぶらしている兄)それらの人物が縦糸横糸としてドラマを奏でるのである。



人間の愛とは何か?赦しとは何か?罪とは何か?慈善とは偽善なのか?人間の誇りとは何か?人間の本来の限りない美しさと醜さ卑しさを交錯させながら、沸騰する会話を中心に人生を描く監督の奥深い教養と知性、それに呼応する役者達の名演技、そしてどんな醜いシーンでも美しい画面を創りだす監督の美意識、これほど完成度の高い映画は久しぶりだ。



監督には、モスレムという宗教がありながら、その匂いを完全に超越しており、欧米人いや日本人の感覚からも全く違和感のない現代社会の価値観としての普遍性がある。むしろ僕はこの監督は宗教の偽善を見透かしており、無神論に近いと推定する。監督は自分の生き様を、この資産家に重ね合わせているように思えるほど、知性と教養と理性を兼ね備えた主人公だ。見物は資産家と姉との激突、若き妻と姉の激突、若き妻とテナント兄弟との激突、資産家と似非慈善家との激突、引込まれるような会話の数々とその内容のレベルと質の高さであり、つくづく現代日本映画では今の日本人の薄っぺらな会話しか存在しない中、このような会話映画が不可能だと断定できる。



僕の辺境映画論(映画マイナーな国ほど良い映画がある)からしても監督が超越する知性と教養があるのか、トルコ社会にも本来の人間の実存にせまるようなこのような会話激突が現実にあるのか知らないが、長丁場圧倒され続けたのである。(月刊日本9月号より)