南丘喜八郎 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。




南丘喜八郎 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ

月刊日本9月号より

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  大東亜戦争の敗色が濃厚になった昭和二十年四月五日、徳山沖に待機中の戦艦「大和」に最後の出撃命令が下された。


  決戦場となる沖縄へ向けて出撃した「大和」には、第二艦隊司令長官伊藤整一中将以下、総員三三三二名が乗船。


 「大和」は米機動部隊の哨戒圏を外して西へ大きく迂回したが、本土を離れて間もなく、坊ノ岬西南沖で米機動部隊に発見された。四月七日午前十時過ぎ、死闘が始まる。


 米空母三隻から飛び立った第一次攻撃隊(戦闘機一一〇機、爆撃機五一機、電撃機九九機)が、標的「大和」に攻撃を開始。

 米機による攻撃は正確、緻密、沈着だった。四次にわたる熾烈な攻撃を受けた「大和」は、午後二時二十三分、遂に最期の時を迎える。


 左舷側に大きく傾斜して船底が露出、前部・後部の砲塔が誘爆し、瞬時にその巨体は海に没した。伊藤長官以下、乗組員三千名以上が艦と運命を共にした。生存者は僅か二七六名だった。



 この生存者の中に、『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満がいる。「大和」への特攻出撃命令は、「天一号作戦」が発動されたことによるが、同作戦の大綱は以下のようなものだった。(『戦艦大和ノ最期』による)

 本作戦ノ大綱次ノ如シ―先ズ全艦突進、身ヲモッテ米海空勢力ヲ吸収シ特攻奏効ノ途ヲ開ク 更ニ命脈アラバタダ挺身、敵ノ真只中ニノシ上ゲ、全員火トナリ風トナリ、全弾打尽スベシ モシナオ余力アラバ モトヨリ一躍シテ陸兵トナリ、干戈ヲ交エン カクテ分隊毎ニ機銃小銃ヲ支給サル 世界海戦史上、空前絶後ノ特攻作戦ナラン

 

 四月五日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し、伊藤長官は「無駄死にである」と反論した。草鹿中将が口を開く。


  「一億総特攻の魁になっていただきたい。これが本作戦の眼目であります」。この言葉に伊藤長官は遂に頷いた。沖縄を目指す「大和」が、豊後水道に達しようとしていた四月六日午後六時、総員甲板に集合。初めてこの作戦は生還を期さない特攻であることを知らされた。

 その直後、「大和」艦内の士官室で行われた議論を吉田満は著書『戦艦大和ノ最期』で次のように記している。

 痛烈ナル必敗論議ヲ傍ラニ、哨戒長臼淵大尉、薄暮ノ洋上ニ眼鏡ヲ向ケタママ低ク囁ク如ク言ウ

 「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ



 戦艦「大和」が最期を迎えた四月七日、海軍の長老鈴木貫太郎大将が小磯国昭内閣の後を襲って組閣した。鈴木総理は皇居での親任式の直後、控え室で「大和」沈没の報を受けた。


  鈴木貫太郎、この時七十七歳。あくまで本土決戦を叫び、徹底抗戦の姿勢を崩さない陸軍を相手に、老躯を引っ提げ、最も困難な大東亜戦争終結に取り組む。



 昭和十六年、近衛文麿内閣は軍・官・民から優秀な若手を集め総力戦研究所を作り、開戦直前の八月、対米英模擬戦の結果を東條英機陸相に報告していた。

  「奇襲作戦を敢行して成功し、緒戦の勝利は見込まれるが、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦は何としても避けねばならない

 しかし、この報告を検討する大本営には総理大臣、外相など文官は含まれず、陸相と海相は参加を許されたが発言権はなかった。


 結局、この報告書は無視された。特攻の生みの親・大西瀧次郎海軍中将はこう慨嘆したという。

「日本海軍は全力を挙げて日本陸軍と戦い、余力でもって米軍と戦っている」



 日本は今、政治・経済・社会のあらゆる面で行き詰まっている。残念ながら政治家や官僚に、この深刻な事態に真摯に対処し、全力でブチ当たろうとする迫力と真剣さを感じ取ることができない。


 今の日本には、大西中将が慨嘆した如く、功名と縄張り争の余裕はない。このことを肝に銘ずべし。