南丘喜八郎  明治を駆け抜けた若き天才画家菱田春草 : 月刊日本12月号 巻頭言 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。




南丘喜八郎  明治を駆け抜けた若き天才画家菱田春草

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月刊日本12月号 巻頭言

 菱田春草は、横山大観をして「俺よりもっと上手い絵描きだ!」と言わしめた天才画家である

 その菱田春草は画家の命とも云うべき眼を患って失明、三十七歳の誕生日を目前に明治四十四年九月十六日、短い命を終えた。師岡倉天心は春草の死の直後、新聞の追悼記事にこう記している。

 「菱田君の如きは各時代に僅少なる、即ち美術界に最も必要なる人物の要素を備へて居た人である。


斯る要素を備へて居る人は未だ若い不熟の中から判るものである。


不熟のうちからと言つたが、菱田君は或る意味に於て今日でも未だ不熟であつたかも知れぬ。或は終生不熟なのだらう」

 春草の無二の友だった大観は情熱家で豪放磊落、一方、寡黙で理知的だった春草。


その春草は強烈な意志力で失明の恐怖と闘いつつ、新たな時代の日本画創造を目指して苦闘を続けた。大成、成熟の域に達するにその生涯はあまりにも短か過ぎた。終生不熟、偉大なる未完成だった。



 菱田春草は明治七年、現在の長野県飯田市で生れた。十六歳で上京、創立直後の東京美術学校に入学し、岡倉天心らの指導の下、一期上の横山大観や下村観山らと日本画に取り組み研鑽を重ねた。


春草の煌めく才能には周囲が驚嘆した。卒業制作は、日清戦争に苦しむ国民の姿が色濃く影を落とす「寡婦と孤児」。


教授の福地復一は「化け物絵だ」と落第を主張、橋本雅邦は優れた作品と評価して大論争になったが、最後は天心が最優秀作品とした。

 過激な日本画改革論者天心は、福地復一ら反対派による怪文書を駆使した排斥運動で辞職に追い込まれた。


春草や大観は文部省の懐柔策にも屈せず徹底抗戦したが、遂に懲戒免職、天心が創設した日本美術院に参加する。

 この頃から春草や大観らは従来の日本画には不可欠の輪郭線を廃した無線描法を試みる。


無線描法の作品「菊慈童」の新奇で実験的な画法は伝統への冒涜だとして、「朦朧体」と蔑称され厳しい批判を浴びた。


絵は売れなくなり、生活にも窮したが、春草は決して怯まなかった。異端を貫き、さらなる創造へ向かうのだった。

 その後、春草は明治三十六年に大観と共にインド、天心らと米国などを訪問した。


天心は帰国後、経営破綻に陥った谷中の日本美術院院舎を売却、茨城県五浦で再起を図る。


天心の命により、春草・大観・観山・木村武山の四人は五浦に移住する。


漁師町五浦にあって、安価な魚すら買えない極貧のなか、彼らは制作活動に没頭する。安田靫彦はこう書き残している。

 「大観の背後には血を吐きながら死んでゆく妻の姿が、春草の背後にも飢えに泣く幼児たちの姿が見えた」

 この頃から、春草の眼に異常が生じ始める。真っ直ぐに引いた筈の線が、歪んでいるのだ。気丈な春草はことさら異常を訴えることなく、第一回文展に出品する「賢首菩薩」の制作に専念する。


春草は近代色彩学を踏まえ、これ迄の日本画にはなかった配色の組合せに挑み、作品の重厚さを表すため点描画法を試みた。

 「一緒にいた私は、瀝々と涙の滲むやうな苦心を目撃している」(僚友木村武山の回想)

 この間、眼の病は昂進する。大観の勧めで上京し、医師の診断の結果は慢性腎不全による網膜症だった。


執筆禁止になったが、医師の懸命な治療が功を奏し、再び絵に精進する。


東京代々木の自宅近くに広がる雑木林を散策しつつ画想を練った。明治四十二年の第三回文展に六曲一双屏風「落葉」を出品、最高賞を得た。

 「葉の落ちる音さえ聞こえるのではないかと思わせる静謐さ、画面の枠を超え、現実すらも超えて、人を無限の広がりに引きいれるような不可思議な空間性」(鶴見香織の評)を、「落葉」は見事に表現している。

 その後、写実と装飾性を融合した傑作と評価される「黒き猫」を描いたが、この間、眼は小康と悪化を繰り返しつつ、病状は確実に進行した。

 失明への恐怖と幼い子供を抱えた春草は、明治四十四年八月二十九日、兄為吉宛てに手紙を書く。

 「五六日前より眼の模様あしく成り最初の一日二日は今日迄不十分ながらも不正形に相見え候処のもの烈しく不透明と相成其次は暗く相成僅か五日計りの間に全く真の暗みの如……」

 遂に失明した春草は、その十八日後、病状の急変で短い生涯を閉じた。

 春草は明治の激動期を、新たなる芸術創造へ強烈な意欲をもって駆け抜けた。

 彼の短い生涯は日本画に遥かな可能性を拓き、後に続く世代をさらなる創造へと向かわせたのだ。

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