【知道中国 1070回】 ――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(    | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。





樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1070回】      
 ――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野13)
   「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 △
中野も「カメラを持ってはいたが、それはふたつ目玉のやつで重くてごろごろしてかなわない。フィルムも十二枚分しかはいらない」。そこで宮本顕治が持つ「両手でつかんで眼のところへ持ってきてやるのを借りてきた」。だが、いったい「どうやって使うのか、どうフィルムを入れるのか私はひとつも知っていない」と告白している。


これでマトモな写真が撮れたのか。なにはともあれ、「ふたつ目玉のやつ」やら「両手でつかんで眼のところへ持ってきてやるの」やら、確かに時代を感じさせる表現で微笑ましいかぎりだ。

上海の復興公園で食事をしている時、一人の男に声を掛けられる。「訛りのある日本語で」、「話ははっきりしない。だからといって、私の方から根ほり葉ほりすることもできない。そうさせぬようなものがあった。


結局のところ、この人は日本電気の設計にいた広田功という人だということがわかったが日本人ではなかったかも知れない」という。ならば台湾の出身だったのか。

この広田なる人物が、どのような動機で中野に話し掛けてきたのかは不明だが、「『松前重義さんは元気でいますか。』というようなことをいう。/『日本電気の連中が、広田はどうしているかと訊くようなことがありましたら、結構元気でやっているらしかったと言っておいてください。』というようなことも」口にした。

松前重義といえば、戦争中に東條首相を批判したことで高齢ながら召集され戦地に送られ、戦後は社会党代議士を経験し、東海大学を創立した松前重義のことだと思う。


だが、見ず知らずの中野に松前の話を持ち出した理由は何なのか。また日本電気の連中に自分が「結構元気でやっているらしい」と伝言を頼むのは何故なのか。

中野の訪中は45年の敗戦から12年、49年の共産党政権成立からは8年が過ぎている。戦争に敗れても帰国せず(あるいは帰国できず)、そのまま共産党政権になっても中国に留まった日本人も少なくなかったと伝えられるが、かりに広田もそのような日本人の1人であったとしたら、あるいは懐かしさの余りに、偶然に目にした日本人に声を掛けてきた。その日本人が中野だった、とも考えられる。

だが、かりに中野の監視役であったとしても構わないが、広田が翌58年から始まる大躍進という名の飢餓地獄や、66年からの文革をどのような思いで過ごしたのか。活き抜けたのか。はたまた犠牲になったのか。いずれにしても、日中関係の激動の歴史は、多くの名もなき日本人を翻弄したことだろう。

中野は杭州の街を歩く。「主席 毛沢東」の名前で出された「一九五二年六月二十六日」の日時が付された額縁入りの「革命犠牲/軍人家族 光栄記念証」を見て、この内容を筆写する。ここでいう「革命」とは朝鮮戦争のこと。犠牲者家族への感謝状だった。

「たしかにこれは、一九四五年までの戦争とは別のものだった」。「あの戦争で日本は敗北した。そして新しい日本ができた。あるいはできた筈だった。それから五年して朝鮮戦争がおこった。あのときアメリカ軍の司令部は日本にあった。日本はアメリカ軍の直接の基地だった。


抗美援朝の中国志願軍のひとりとしてこの店の息子が出かけて行き、こうして戦病死してしまったとすれば」と考えた後、「日本とアメリカ・アメリカ軍との関係、アメリカ軍と朝鮮軍ないし中国志願軍との関係からすれば、ことは第二次大戦後の、第二大戦での日本の敗北にもかかわらぬ新規の日本の犯罪ということになるだろう」と綴る。

中野は、朝鮮戦争の際に「アメリカ軍の司令部は日本にあった」から、中国の兵士の死は「新規の日本の犯罪」と言いたいのだろうが、バカも程々にしてもらいたいものである。こういうバカ話を真顔で綴る中野のバカさ加減に、ほとほと呆れ返るばかりだ。
《QED》

~~~~~~~
もう一本
~~~~~~~
知道中国 1071回】   
 ――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野14)
    「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 △
とどのつまり朝鮮戦争は、金日成の朝鮮半島を我が手に握りたいという妄想、スターリンの野望、毛沢東の山っ気、李承晩の他力本願、マッカーサーの傲慢、ホワイトハウスの大油断とが複合的に引き起こした戦争でこそあれ、中野が力説するような「新規の日本の犯罪」でもなんでもないことは明かだろう。

にもかかわらず、「新規の日本の犯罪」などと公言するということは、中野もまた「愚ニアラザレバ誣ナリ」――あんなにアホなことを言うというヤツは、本人が余ほどのバカか、世間をバカにしているかのどっちかだ――の類だろう。


もっとも当時、中野はレッキとした日本共産党員だったはずだから、“鉄の規律”で雁字搦めに縛られていたということも十分に考えられるから、致し方のないことかもしれないが。

朝鮮の戦場に赴いた一人息子は、「革命犠牲/軍人家族 光栄記念証」という一枚の紙を残して命を落としてしまった。後に残されたのは老夫婦のみ。


そこで中野は「あのときもう少し時間に余裕があれば、通訳の王さんがゆっくりと傍にいてくれることができたとすれば、そんなら私は少しはマシな挨拶を老夫婦にすることができただろうか」と自問し、「そうは思えない」と否定してはいる。

それはそうだ。朝鮮半島の持つ複雑極まりない地政学的条件と、それを見据えての金日成、スターリン、毛沢東、李承晩、マッカーサー、ホワイトハウスの思惑を度外視しては語れない朝鮮戦争における名もなき犠牲者の遺族の前に、日本では有名かもしれないが中国では誰も知らないような中野重治がヒョッコリと登場し、「新規の日本の犯罪」を詫びられたうえに悔やみの言葉をいわれたところで、やはり戸惑うしかないだろう。

その昔の流行語ではないが、「同情するならカネをくれ」である。中野の自己満足なんぞ、一人息子を失った老夫婦にとってはなんの役にも立たない。莫明其妙(チンプンカンプン)以外のなにものでもなかったはずだ。

にもかかわらず、中野は、「日本と中国との二千年に近い関係のなかでは、最近五十年間の不幸な歴史は束の間のものに過ぎない。それは忘れましょう。そして平和なこれからの関係を作り出していきましょう。


そういった言葉はそれなりに受け取るべきものであり、また受け取ることが(日本人としても)できるだろう。しかしそれを現に受け取っている日本人われわれが、日本人と日本人の技術と日本の国土とを今日現在どう使っているかに結びつけては、少なくともあのとき、時間があったにしても私には挨拶の言葉も見出せなかった。


老夫婦に慰めの言葉をかけるというようなことは、そのときの私には考えることもできぬことのように思われていた」と、愚にもつかぬことを書き連ねる。

この種の、客観情況に無頓着で過剰なまでの自己満足こそが、戦後の日本人の中国認識を大いに歪めたといえるだろう。それだけではない、そういった日本人の態度が中国側に付け入る隙を与えてしまった。その点を衝いて、中国側は対日世論工作を巧妙に仕掛ける。

戦争当時、あの場所には「日本軍が屯してあのエレベーター下の地下室を拷問部屋に使っていた。そして毎日のように街から男たちが引っ張られてき

て・・・・・といった話」、某所には「登部隊の司令部があって、そうして・・・・・といった話」、別の某所では「あのA教授が支那派遣軍経済特別顧問の名で妾と一しょに住んでいて、そうして・・・・・といった話」を、「私はひとつも知らずに中国へやってきていた。そして中国人の口からもひとつもそんな話がでなかった」。

だが「とにかくそういう犯罪の跡」へ案内され、初めて「そういう犯罪」を知る。「ひとつも知らずに中国へやって」きたから、それを信じ込まされてしまうことになる。
《QED》