教育再生 第8部 国作りは人作り: 1)井上毅 ~ 有徳国家をめざして(上) | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

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教育再生 第8部 国作りは人作り

1)井上毅 ~ 有徳国家をめざして(上)

 大震災では、戦前の教育勅語が理想としていた生き方が、あちこちで見られた。
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■1.「避難して」最後まで防災放送

 平成23(2011)年3月11日、大地震の直後、宮城県南三陸町の防災対策庁舎から「6メートルの津波が来ます。避難してください」と冷静で聞き取りやすい女性の声で呼びかけが何度も繰り返された。

 この放送で多くの町民が避難できた。しかし、放送は途中で切れた。最後の方は声が震えていたという。3階建の庁舎は津波にのまれ、鉄筋しか残らなかった。庁舎に残った職員約30人のうち、20人が殉職した。

 最後まで放送を続けたのは危機管理課で防災放送担当をしていた24歳の遠藤未希さん。昨年7月に婚姻届を出し、今年の9月の披露宴に向けで楽しそうに準備をしていたという。

 避難所へ逃げることができた女性(64)は、「あの放送でたくさんの人が助かった。町民のために最後まで責任を全うしてくれたのだから」と語った。[1]


■2.「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」

 遠藤未希さんの生き様で改めて思い起こしたのは、「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」という一節である。「危急の際には、自らの義務を果たそうと、勇気をもって、公のために尽くし」というほどの意味だ。

 戦前の道徳教育で中核的な役割を果たしてきた教育勅語の一節である。現在では、戦前のものはすべて軍国主義で悪いものと決めつけられて、この教育勅語も否定され、忘れられてきたが、遠藤さんの防災放送担当として「義勇公に報」ずる生き方があったからこそ、多くの人々が救われたのである。

 遠藤さんだけではない。福島第一原発事故に身を賭して対応し、「福島の英雄たち」としてスペインのアストリアス皇太子賞を受賞した自衛隊、東京消防庁、警視庁の人々[a]、被災者支援に立ち上がったボランティアたち。みな「義勇公に報じ」た人々である。[b]

 国家の安全、国民の生活は、こういう人々の「義勇公に報」ずることで守られている、ということが、今回の大震災で明らかになった。

 もう一つ、東北の人々が着の身着のまま放り出されても強い家族愛、同胞愛を持って助けあう姿が、国民全体を感動させたが、これについても、教育勅語は次のように述べている。

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父母ニ孝(こう)ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和
(あいわ)シ、朋友(ほうゆう)相信ジ、恭倹(きょうけん)己(
おの)レヲ持(じ)シ、博愛衆(しゅう)ニ及ボシ、

 父母に孝養をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友とは信じあい、自らの言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、
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 被災地の人々が身をもって示してくれたのは、まさに教育勅語が理想として説いた生き方そのものであった。


■3.明治天皇の教育に関するご憂慮

 教育勅語は明治の代表的教育家・井上毅(こわし)が中心となって起草したものだが、その動機となったのは、明治の文明開化のなかで、何でも西洋風が良いとして、伝統的な道徳が見失われつつあった当時の社会風潮に対する危機感であった。

 それはちょうど、現代日本で、戦前のものはすべて封建的・軍国的だとして否定しながら、なんら新しい道徳を示せず、社会の混乱を招いているのとよく似た状況であった。

 積極的な西洋文明の導入により、社会全体に、欧米を一段高く見て、日本の歴史伝統を捨てて、欧米化しなければダメだ、という風潮が蔓延していた。

 当時の教育の状況について、明治天皇も憂慮されていた。天皇が地方を巡幸された時、ある学校では先進的な授業を見せようと、生徒に英語でスピーチさせた。ところが、陛下がその生徒に「その英語は日本語で何というのですか」と尋ねられても、生徒は答えられなかったという。

 明治12年、明治天皇は側近であり、ご自身で師と仰がれていた元田永孚(もとだ・ながさね)に命じて『教学聖旨』という一文をまとめさせ、政府首脳にお示しになった。そこには、次のような認識が示されていた。

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 最近、専(もっぱ)ら知識才芸のみを重んじ、文明開化のむしろ悪いところを学び、品行を損ない、風俗を乱す者が少なくない。

 その原因となっているのは、明治維新の始めにおいて陋習を破り、知識を世界に求めるとした卓見により、西洋の良い所を学び、文明開化の実を挙げたことは良かったとしても、その反面として、仁義忠孝を後にし、いたずらに洋風を競うような状況になってしまったことである。[2,p28]
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■4.県知事たちの危機感

 しかし、問題は簡単ではなかった。内務大臣・伊藤博文は、この『教学聖旨』への反論書ともいうべき『教育議』を提出した。儒教の「仁義忠孝」を教育の根本に据えたのでは、信教の自由という近代政治の原則に悖(もと)ることになり、それは政府が率先してやるべきことではない、と主張したのである。

 この『教育議』を書いたのは、伊藤のブレーンであり、後に教育勅語起草の中心となった井上毅だと言われている。明治天皇のお考えを示した『教学聖旨』に堂々と反論を挑むところに、当時の自由、かつ真剣な議論ぶりが窺われる。

 しかし、この信教の自由の問題もあって、政府は具体的な手を打てず、事態はますます悪化していった。明治20年頃になると、米国からの留学帰りが、文部省の中で「学士会」という党派を組織して羽振りを効かせていた。文部大臣の森有礼(ありのり)は、英語を国語にしようとまで主張していた。

 教育の現場でも、小学生は少しでも数学や物理の初歩を学ぶと、たちまちその知識を誇って、大人を軽蔑するような態度をとっていた。中学生は、天下国家を論じ、校則を犯し、職員を批判し、紛争を起こす。

 明治23(1890)年に開かれた地方官会議(県知事会議)では、こうした事態に対する危機感から「徳育涵養の義につき建議」が採択された。そこにはこんな危機感が表明されていた。

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 このままでは実業を重んじず、妄(みだ)りに高尚の議論を振り回し、年長者をバカにし、社会の秩序は乱れ、ついには国家を危うくすることにもなりかねない。

 これは知育の一方のみが進み、徳育が同時に進んでいないからであって、今その救済策を講じなければ、他日必ず臍(ほぞ)をかむような悔いを残すだろう。[2,p42]
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 この建議をもって、全国の知事が打ち揃って、文部大臣に詰め寄ったものの、やはり宗教との距離をどう置くのかという問題にぶつかって、先へ進まなかった。


■5.「これは納得できない」

 このような状況をご覧になっていた明治天皇は、「徳育に関する箴言(しんげん)を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」と提案された。

 この天皇の命を拝した文部大臣・芳川顕正(よしかわ・あきまさ)は、サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳してベストセラー『西国立志編』を著した中村正直(まさなお)に、草案の作成の委嘱をした。

 中村はもともと儒学者だったが、イギリス留学をきっかけにキリスト教徒に転向した人物で、作成した草案はきわめてキリスト教色の強いものだった。

 これを正式な内閣案にするためには、法令上の問題がないか、法制局長官のチェックが必要だった。しかし、当時の長官・井上毅はその草案を一読して、「これは納得できない」と断固、拒絶をした。
 


儒教道徳を教育の根底に据えるのと同様、キリスト教に基づいた教育も、国民全体を教育する規範としては、受け入れられない、というのが、井上の考え方だった。

 しかし、これが井上毅が教育勅語に関わるきっかけとなった。


■6.「西洋に何を学べば、日本の独立を保てるか」

 井上毅は天保14(1844)年12月、熊本藩の下級武士の家に生まれた。4歳で『百人一首』を全部暗記して神童ぶりを発揮した。

 暗くなっても、小窓から差し込む光を頼りに本を読んでいる毅に母親が「勉強に根をつめず、暗くなったら早く寝なさい」と繰り返し注意していた。そこで毅は「ならばお母さんのご飯炊きを手伝う」と言って、暗いうちから起きて、かまどの火の明かりで本を読んでいた、という。

 長じて、藩校・時習館の居寮生(藩が俊才を10名ほど選抜し、藩費で寄宿させる制度)に抜擢された。20歳の時には、熊本藩の大先輩で、当時56歳、日本を代表する論客・横井小楠に論戦を挑んだ。

 開明派で「万国一体、四海同胞」を説く小楠に対して、「人類がみな兄弟と言うなら、なぜ西洋諸国は植民地支配という非人道的行為をしているのか」と堂々と論難した。

 井上毅は、鎖国ではやっていけない世界情勢を認識し、近代的な軍備を急ぐ必要があると説きながらも、「万国一体」などという美辞麗句に惑わされて、我が国らしさを失っては元も子もない、と考えた。

 23歳で明治維新を迎え、明治5(1872)年、司法省から抜擢されて、フランスに留学し、司法制度を学ぶ。しかし、井上には多くの留学生が陥ったような西洋崇拝も、一方的な日本卑下もなかった。「西洋に何を学べば、日本の独立と日本らしさを保てるか」という一点に徹して、研究したのである。

 たとえば、刑法、刑事訴訟法などでの西洋の進んだ人権の考えは取り入れつつも、民法などは国民の独自の習俗、慣習に基づいたものでなければ社会が混乱する、と考えた。

 帰国後、岩倉具視、伊藤博文のブレーンとなり、「日本の司法制度、裁判制度は井上毅によってつくられた」と評されるような業績を上げていく。


■7.「法は民族精神・国民精神の発露」

 
明治13(1880)年から翌年にかけて、自由民権運動の高まりとともに、憲法制定や国会開設を求める運動が盛り上がった。政府内でも数年内に国会開設しようという急進派がいたが、井上毅はこれに危機感を抱き、岩倉、伊藤に漸進的な進め方を取るべきと説いた。

 この結果、明治14(1881)年の秋、明治天皇の詔勅(しょうちょく)により、22年に憲法制定、翌年に国会開設という方針が示された。これを受けて伊藤博文は、モデルとなる憲法を求めて、欧米視察に出る。

 伊藤がヨーロッパで師事したのが、政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授だった。シュタイン教授は「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする歴史法学の考えを伊藤に教えた。[c]

 井上毅は国内で並行して欧米各国の憲法を慎重に比較検討しながら、具体的な憲法条文の研究を進めていたが、明治18(1885)年頃から、国史の研究に没頭し始める。

「法は民族精神・国民精神の発露」とするシュタイン教授の考えは、当然伊藤を通じて、井上毅にも伝えられていただろうし、それは日本らしさを失わずに、近代化を進めようとする井上自身の考えにも合致するものであったろう。


■8.凄まじい国史国典研究

 近代憲法の根基となるべき「民族精神・国民精神」の伝統を解明しようとする井上の勉強ぶりは凄まじいものだったと、国典研究の助手をつとめた国文学者の池辺義象(いけべ・よしかた)が回想している。

 井上はこの頃から肺結核の兆しが出始めており、心配した池辺は明治19(1886)年の暮れから正月にかけて、千葉や神奈川の名所を巡る旅に連れだした。

 千葉の鹿野山に登った時も、片手に書類を握って、読みながら歩く。12月の冷たい風に手が凍るように痛むと、ようやく手にしていた書類を鞄にしまい込んだ。

 池辺がようやく「やれやれ、これでやっと歩くのに専念するのか」と思いきや、次の瞬間には「ところで、大国主神(おおくにぬしのかみ)のあの『国譲(ゆず)り』の故事は、一体どういうことだったろうか」と聞いてきて、池辺を驚かせた。

 鎌倉に着いた時、雪も降り風も強くなっていた。井上は「大宝律令にはどんなことが書いてあったか」と池辺に質問した。池辺が「今ここに原文がありません。私の記憶だけでは正確に答えられません」というと、「では今すぐにでも確かめたい。帰京予定を一日早めて、これから出発すれば今日中に東京に帰ることができるだろう」と、雪が降り風の吹きすさぶあぜ道を駆け出した。

 雪で、顔が針で刺されたように痛むにもかかわらず、藤沢まで行き、そこから人力車で横浜に出て、横浜からは汽車でその日のうちに東京に戻った。

 こういう鬼気迫る国史国典研究から、井上は「民族精神・国民精神」に関する重大な発見をする。井上は、それを大日本国憲法の根幹に据え、さらにそこから教育勅語を起草するのである。

(続く、文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(724) 福島の英雄たち
 自衛隊、消防庁、警視庁などの無数の英雄たちが、身を呈して福島第一原発事故の収拾にあたった。
http://blog.jog-net.jp/201111/article_3.html

b. JOG(699) 国柄は非常の時に現れる(上)~ それぞれの「奉公」 自衛隊員、消防隊員は言うに及ばず、スーパーのおばさんから宅配便のおにいさんまで、それぞれの場で立派な「奉公」をしている。
http://blog.jog-net.jp/201105/article_4.html

c. JOG(242) 大日本帝国憲法~アジア最初の立憲政治への挑戦
 明治憲法が発布されるや、欧米の識者はこの「和魂洋才」の憲法に高い評価を与えた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog242.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 産経新聞、H230330、「『避難して』産後まで防災放送」

2. 伊藤哲夫『教育勅語の真実』★★★★、致知出版社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4884749391/japanontheg01-22/