南丘喜八郎 月刊日本10月号【巻頭言】自ら反みて縮くんば千万人と雖も吾往かん | 護国夢想日記

護国夢想日記

 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

南丘喜八郎 月刊日本10月号【巻頭言】自ら反みて縮くんば千万人と雖も吾往かん
----------------------------------- 


 大正十二年九月一日、上野で第五回院展が開催された。横山大は絹本二尺幅、延長百五十尺という空前の大作「生々流転」を出品した。


雪舟の山水画を遥かに圧倒する未曾有の作品で、山奥に生茂る木々の葉末から落ちる露が渓流となり、大河となり、遂に海に注いで怒涛となって、龍が竜巻を起して昇天するまでを描いている。
 


大観、この時五十六歳。波乱に飛んだ半生を振返り、その感慨を流転に託したのだろう。出来映えは格調高く、冴え返っていた。


「在来の彩画家大観に一応の清算を遂げ、爾後水墨画家大観として、画壇に新たなる地歩を確立せしむるに至った」(斉藤隆三『横山大観』)作品だ。事前の評判が人々の関心を呼んだ。


大作「生々流転」の前に人が溢れていた午前十一時五十八分、突如天地が咆哮し、大地が激しく揺れ動いた。関東大震災である。
 


激震で建物の壁は落ち、絵は木の葉のように飛散、彫刻は台ぐるみ転倒した。だが大作「生々流転」は奇跡的に損傷を免れ、池之端の大観の自宅に運び込まれた。


翌日も猛火は続き、大観の自宅に迫っていた。心配で駆けつけた堅山南風に、一升瓶を下げて玄関に立った大観は悠揚迫らずこう言った。「堅山よく来た。まあ一杯呑め」

 明治・大正・昭和を通じ、日本画壇の寵児だった大観の人生は波乱万丈、実に豪放磊落な人物だった。大観は慶応から明治に改元された直後、維新後も保守・急進各派が血みどろの抗争を繰り広げる水戸藩士の長男として生れた。


藩内保守派の父は尊攘派急先鋒の天狗党鎮圧に功あったという。波乱万丈の人生は出生時に始まる。「陣痛の苦しみの内にあった私の母は藩内抗争の難を裏庭の竹林の中に避け、そこを産褥として私を生んだ」(『大観自伝』)
 


東大予備門の受験に失敗した大観は明治二十二年、東京美術学校に第一期生として入学、岡倉天心との運命的な邂逅をする。明治三十一年、天心は醜聞に端を発したクーデターで東京美術学校を追われ、日本美術院を創立した。
 


大観は師天心の境遇を、「已矣哉、国に人無く我を知る莫し」と泪羅の渕に身を投じた屈原になぞらえ、日本美術院創立記念の展覧会に大作「屈原」を昼夜兼行で書き上げる。


フェノロサは「観る毎に涙潸然として下り、転た感慨胸中に満ちぬ」と絶賛し、当時論壇の雄だった高山樗牛と坪内逍遥との歴史画論争の契機ともなった。
 


当時、大観や菱田春草らが挑戦した輪郭線を描かない新しい表現方法を、保守派は「朦朧体」と揶揄、批判した。 大観は明治三十五年の日本絵画協会で、牢固たる保守派に対し、自らの決意を敢然として披瀝する。


「美術ノ海ハ渺々トシテ水天ニ接ス、生等孤舟ヲ艤シテ千里此間ヲ渡ラントス。逆風ヲ襲フアリ狂濤ノ起ルアリト雖、帆破レ櫓折ルルモ必ズ達スベキノ彼岸ニ達スルノ日アルコトヲ信ジテ疑ハザルナリ」

 順風満帆な時期は続かなかった。財政難に陥った美術院は茨城県の寒村五浦に移転し、大観、菱田春草らは天心に従って転居、極度に貧しい生活の中で絵を制作し続けた。五浦を訪ねた安田靫彦がその時の思い出を語っている。


「絵を描く大観の背後に血を吐きながら死んでゆく妻の姿が、春草の背後にも飢えに泣く幼児たちの姿が見えた」
 だが、大観らは画室は雨露さえ凌げればよい、と決して贅沢は言わず、孤独に耐えつつ黙々と制作に取組んだ。
 


明治三十五年から大正二年までの大観の境遇は、悲惨を極めた。絵は全く売れず、貧困に喘ぎ、天心に従ってインド、アメリカを旅する間、妻、弟、六歳の娘、父と次々に肉親を失った


大観は後年「悲愁の十二年」と呼んでいる。無二の親友菱田春草や恩師岡倉天心をも喪った、その苦悩、悲しみは想像するに余りある。
 


だが、大観は決して挫けることはなかった。恩師天心が不遇の時代に謳歌した「奇骨侠骨 開落栄枯は 何のその 堂々男児は死んでもよい」を、一献傾けながら歌っていたに違いない。
 


昭和二十九年、読売新聞のインタビューに、大観は「芸術家には強烈な気魄が必要だ。孟子の『自ら反みて縮くんば千万人と雖も吾往かん』こそが、その気魄だ」と語った。
 


翌年春、八十九歳の大観は危篤状態に陥った。意識混濁の状況にあって酒を所望し、酒一合を一気に嚥下し眠りに就いた。翌日は脈拍の乱れも復し、頭脳の混迷も去った。爾後順調に推移し、朝一合昼晩二合の日本酒を主食とし、半年後には絵筆を執るまでに回復、彩色画「山川悠遠」を完成させた。晩年、大観は次のように語っていた。


「気魄と人格の拠り所は、私たちが日本人だという意識を持つこと、それ自体の中にある。国粋主義とか、民族主義とかいう考え方より、もっと深いところにある『日本人であるのだ』という個性を腹の底から認めることだ。私が絵を描く自信も喜びもここに根ざしている」
 


三年後の昭和三十三年二月二十六日、大観は波乱万丈の人生を閉じた。享年八十九だった。