沖縄戦「住民自決命令」(上) 神話の創作者たち NO.1 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

「住民自決命令」の神話を創作した沖縄タイムスは米軍の御用新聞だった



■1.沖縄戦「住民自決命令」裁判

 昭和20(1945)年3月27日、米軍は沖縄の西にある渡嘉敷島に上陸した。その日、渡嘉敷島の守備隊では次のように「住民自決を命ずる」決定を下したと、『鉄の暴風』(沖縄タイムス、朝日新聞社、昭和25(1950)年刊)は記している。[1,p43]


 地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った汎(あら)ゆる食料を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。

これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した。


 映画でも見ているようなドラマチックな場面であるが、ここに登場する知念少尉は、後に次のように証言している。[1,p43]


 渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘ばかり書くから、私は読んでいませんよ。

 知念氏は『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムスから、一度も取材されたことがない、として、「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と言う。そして住民自決という「軍命」があったことを真っ向から否定した。

 こういう本から、「住民自決命令」という神話が一人歩きして、教科書に載るまでになってしまったのだが[a]、本号では、この沖縄タイムスの「見てきたような嘘」を、誰がどのような過程で創作したのか、を追ってみたい。


■2.「思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」

 その前に『鉄の暴風』が描く「見てきたような嘘」を、もう一つ、見ておこう。住民自決の「軍命」が伝えられ、実行された場面である。[1,p35]


 恩納河原(おんながわら)に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。

「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから全員玉砕する」というのである。(中略)

住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊(かたまり)り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長(ママ)や家長が「みんな笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。

 住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。

 手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、--男、女、子供、嬰児(えいじ)--の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた。

死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀(かみそり)で、自らの頸部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、・・・


■3.「あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」

 実際に地元の駐在巡査として村民と行動を共にし、赤松大尉と接触もあった安里(あざと)喜順氏は、沖縄タイムスに反論の手紙を出した。[1,p71]

 私は当時の最初から最後まで村民と共に行動し、勿論(もちろん)自決場所のことも一々始終わかってをります。あの集団自決は、軍命でもなければ赤松隊長の命令でもございません。責任者として天地神明に誓い、真実を申し上げます。・・・

『鉄の暴風』が発刊されてをるのも知らず、那覇の友人から聞かされ、それを見せられて驚いた程であります。その時にはすでに遅く、全国に販売されてをったようです。

 それで一方的な言い分を聞いて実際に関与した而(しか)も責任ある私達に調査もされず刊行されたこと私の一生甲斐(原文のママ)の痛恨の極みであります。沖縄タイムスの記者が私を訪ね、渡嘉敷島について調べられたことは今もって一度もございません

 安里氏によれば、赤松隊長に村民の避難場所について尋ねたところ、「作戦の邪魔にならない、部隊近くのどこか安全なところに避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」と答えた。

 ところが集まった村の幹部たちは動揺しており、自決した方が良い、ということになった。自決が始まったが、手榴弾の使い方が分からない、あるいは不発弾も多く、生き残った村民たちが部隊の陣地になだれ込み、銃を貸してくれ、と頼んだ。部隊はこの要請を拒否。そこに米軍の迫撃砲が撃ち込まれ、5,60人が死亡。それを見て皆われに返った。

 赤松隊長は自決の知らせに驚き、「早まったことをしてくれた」と嘆いたという。米軍が上陸すると、赤松隊長は軍の食料の半分を民間と分け、安里氏はその分配に立ち会った。「部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄(そてつ)でも食べて生きられるだけ生きなさい」と言った。


■4.米軍軍政の御用新聞として創刊された沖縄タイムズ

 現場に居合わせた知念氏にも安里氏にも取材することなく、いかにも見てきたような光景を創作した、この沖縄タイムスとはどんな新聞なのか。

 発端は、終戦前の昭和20(1945)年7月に遡る。軍政の敷かれた沖縄で、米軍の命令で「ウルマ新報」という新聞が創刊された。

 創刊に関わった高良一氏は「米軍によって軍政府の情報課に引っぱられ、新聞をやれといわれた。しかし、米軍の宣伝をする新聞を創るとスパイ扱いされるからご免だと思ったが、断ると銃殺されるかもわからず、否応なかった」と語っている。

 ところが同社社長に瀬長亀次郎氏が就任すると、米軍との関係が悪化。ウルマ新報の代わりとして、米軍が協力を約束して発行を認可したのが、沖縄タイムスだった。

 同紙の創刊は、昭和23(1948)年7月1日だが、その紙面のトップには米軍幹部のメッセージが掲げられている。その一つとして、軍政府情報部長R・E・ハウトン大尉は、こう述べている。


 沖縄タイムスが沖縄人民の情報、時事並びに軍民両政府から発せられる司令や命令を報道することは軍政府の要望するところである。


 その下に、高嶺朝光社長の次のような創刊の辞が掲載されているのだが、この位置関係が、米軍との関係を示している。


 吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している、この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に対する協力であり、また、これが沖縄を復興する道である。


 当初は2ページ立てのガリ版刷りで、週2回の発行だったが、軍からの用紙の補給が困難という理由で、第14号以降「本紙は軍命により」として週1回に変更している。新聞社としても用紙の補給を米軍に頼っていたわけで、まさに「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活している」と生殺与奪の権を握られていたのである。

 こうして米軍の軍政下で、御用新聞として創刊されたのが沖縄タイムスだった。

JOG-Mel NO.722より。