沖縄戦「住民自決命令」(上) 神話の創作者たち NO.2 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

「住民自決命令」の神話を創作した沖縄タイムスは米軍の御用新聞だった


■5.「沖縄人は虐げられてきたのだ」

 米軍侵攻時、沖縄県民がいかに祖国日本のために戦ったかは、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」という沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将の言葉で言い尽くされている。[b]

 この沖縄を米軍軍政で統治するためには、県民を心理的に日本国そのものから切り離さねばならない。そのために米第10軍司令部内の情報部は、沖縄戦を前にして心理作戦チームを編成し、情報収集を開始した。

 この一環として、ハーバード大学のアルフレッド・トッツア教授は「琉球列島の沖縄人・日本の少数集団」という心理作戦を立案し、次のように提言している。[1,p111]


 沖縄人は虐げられてきたのだという意識を高め、沖縄人は、日本人全体と対応する個別の民族であるというアイデンティティーを強調する趣旨の宣伝懐柔策が成功をおさめるだろう。


 この心理作戦に基づき、情報部は沖縄での空中散布用に570万枚ものリーフレットを印刷した。そこにはこんな文面があった。[1,p112]


 皆さんの家はこわされたり、畑や作物は踏み潰され又元気盛りの青年は殺され、沖縄の人は皆口に言えぬ苦労をしています。内地人はみなさん達に余計な苦労をさせます。・・・

日本兵が沖縄の人々を殺したり住家をこわしている事は皆さん達に明らかでしょう。この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。唯(ただ)貴方達は、内地人の手先に使われているのです。


■6.「国境を民族を、超えた米軍の人類愛」

「日本兵が沖縄の人々を殺したり」というプロパガンダに呼応して、企画されたのが『鉄の暴風』だった。この本の監修を担当した常務の豊平良顕(とよひら・りょうけん)氏は、「高嶺社長以下全社員の熱意によつて、沖縄タイムズ創刊当初より戦記刊行が企てられ、、、」と、経緯を綴っている。

 その中に「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承ったことは、、、」という一節があるが、「承る」とは「上位者から命令などを『受け』『いただく』の意」(大辞泉)である。その上位者とは米軍と考える他はない。とすれば『鉄の暴風』の執筆は米軍の命令だったことになる。

 さらに豊平氏は、こうも述べている。[1,p117]


 なお、この動乱(沖縄戦)を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境を民族を、超えた米軍の人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。われわれは、そのことを特筆した。

「更生」とは「前科者の更生」というように使われる。「米軍のヒューマニズム、人類愛によって、今まで内地人に虐げられてきた沖縄人は正しい道に戻った」という認識である。

 ちなみに作家ジョージ・ファイファーは『天王山-沖縄戦と原子爆弾』で米軍による沖縄でのレイプ事件の被害者を1万人以上と推定しているが[1,p148]、米軍の「人類愛」を謳いあげる沖縄タイムスでは、当然、このような事実は闇から闇に葬られたことであろう。


■7.「また聞きのまた聞き」から創作された光景

 こうした方針のもとに『鉄の暴風』は二人の執筆者によって、昭和24年(1949)春から、取材3ヶ月、執筆3ヶ月という短期間で仕上げられ、同年11月に脱稿。その後、原稿を英訳して、米軍政府に出版許可を求めた。

 結局、米軍政府の許可が降りたのは、脱稿から7ヶ月もたった昭和25(1950)年6月15日だが、許可が長引いたのは、時の軍政長官シーツ少将が読み始めて「これは面白い」と手元に長い間、置いていたからだという。このシーツ少将は、『鉄の暴風』の出版広告に「沖縄人必読の良書」と最大限の賛辞を送っている。

 さて、この「必読の良書」は、記者二人が取材3ヶ月で400字詰め原稿用紙750枚ほどを書き上げただけに、筆者の一人、太田良博氏自身が自ら言うように「まったく突貫工事」だった。

 冒頭で「知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛憤した」という一節を紹介したが、知念氏自身が「作り話ですよ」と指摘した点については、太田氏は「あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」と弁解している。

 太田氏は渡嘉敷島の集団自決について取材した人物として二人を挙げているが、一人は事件当時、南方にいて現場を目撃していない。もう一人は座間味島の村助役・山城安二郎で座間味島の自決場面は目撃していても、渡嘉敷島の自決は見ていない。

 太田氏は、現場を見ていない二人の証言から、「また聞きのまた聞き」によって「悲憤のあまり、慟哭し」というようないかにも見てきたような情景描写を、当人に取材もせずに創作したのである。

「住民自決命令」は、事実を正確に記録しようというジャーナリズムでなく、沖縄を日本から分断しようとする米軍の方針に忠実に従ったプロパガンダの産物であった。

(続く、文責:伊勢雅臣)

 

■リンク■

a. JOG(472) 悪意の幻想 ~ 沖縄戦「住民自決命令」の神話
 「沖縄戦において日本軍が住民に集団自決を強要した」との神話が崩されつつある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog472.html

b. JOG(643) 「沖縄県民斯ク戦へり」(上) ~ 仁愛の将・大田實海軍中将
 玉砕寸前の海軍司令部から「県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」と電文が発せられた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h22/jog643.html


JOG-mel NO.722より。