体も心も自分ではない | サンベール社長ブログ

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もし私たちが体も心も自分ではないと意識できたら、私たちの人生はこれまでとは全く違ったものになることは明白である。

 

私たちがこの正しい自己意識を失わないでいたら、いかなる場合であっても、勇気凛々として、めめしい恐怖なんか出てこなくなる。人間の恐怖心というのは、肉体を考えるから出てくる場合が多い。病気にならないだろうか、病気で死にはしないだろうか、怪我をしないだろうかといった具合である。肉体を考えない時は、自分というものがこうも尊い存在であることがはっきりと分かってくる。

 

どんな場合であっても、肉体が自分だという気持ちで人生を送ってはいけない。だからといって、心が自分だと思うと、人生を生きる場合に、非常に生きづらい負担をよけいに感じるという結果になる。心が自分だと思うと、人生観が知らない間に精神至上主義に陥ったりすることになり、理性を養成して人生を生きることが1番賢いという考えを持つようになってくる。そうなると、学問さえすれば、自分というものは満足に生きられるという見当違いの考えで、理性を増やすことしか考えなくなる。

 

心を尊く、強く、正しく、清くして、明るく、朗らかに、生き生きとして、勇ましい気持ちを持つようにすることが1番大事であると、これまで説いてきた。しかし、これは精神至上主義では断じてない。精神至上主義では、心が1番尊い、心以上に尊いものはないという考え方である。

 

天風哲学はそうではない。人間は心も体も生きるための道具である。1番尊いのは、霊魂というひとつの気体。これが私たちの正体なのである。

 

私たちの体が私たち自身なら、私たちはどうしてそれを殺す必要があるのだろう。体は気というものが宿る入れ物であり、物質というものは消滅するようにできている。つまり、消滅の一転機に死という名前をつけてあるだけであり、気はその時この体から離れるだけなのである。

 

気が生きるために体というものを作り、心というものを作った。言い換えると、霊魂というひとつの能動的な気体が肉体という物質を作ると同時に、一方において心理作用を働かせるために脳髄というものを作ったのである。

 

俺は今まで肉体が自分だと思っていたけど、そうじゃなかった。俺は今まで心が自分だと思っていたけど、そうじゃなかったのだ。見えない気体、いわゆる霊魂が俺なのだと考えたとき、もう今までとは全然違った気持ちで自分の肉体を考え、心を考えることが出来ないだろうか。つまり、第三者の位置に立って、客観的に自分の肉体や心を考えるということになると、健康も運命もどれだけ違った、より良い方向へと動き出すか分からないのである。

 

現在、頭の痛い人もいるだろう。もう頭が痛くてしょうがないと思っていると、いつまでたっても治らない。生きる道具である体の頭が痛いのを心に報告したから、心が気に感じさせているのだと思うと、今度は心があんまり報告しなくなる。治る時が来れば治ると思うからである。

 

もっとおおらかに、自分自身を常にもう一人の自分で守らせていくような考え方で生きていく。

これこそ、本当に尊い生き方なのである。