弟子 3
(スワミ・ニランジャンの言葉)
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60年代の初期に、
私(スワミ・ニランジャン)が
アーシュラムに来た時(当時4歳)
何をしたいのか
わからないという
サンニャーシンたちの
グループと一緒でした。
私たちは、
「ヨガの先生」に
なりたくありませんでした。
けれど、
サンニャーシンとは何なのかすらも
知りませんでした。
ただ、
私たちは、
師の傍にいたいと思い、
ただそれだけが、
唯一の渇望であるということだけ
ただ、それだけだとは
解っていました。
私たちは、
自分たちが
食べれるのか、
飢えるのか
それすら気にしていませんでした。
自分たちが
楽で快適な暮らしを送れるのか、
そうでないかも
気にしていませんでした。
着る物があるのかどうかさえ、
気にしていませんでした。
クラスで、
もしくは正式に、
もしくは儀式ばって、
何も教えてもらえないかどうか、
ただ、
24時間ロバのように
働くように言われるのかどうかも
気にしていませんでした。
それは、
私たちの
議題ではありませんでした。
今なお
サンニャーサや
師に従うことの道を行く
多くの人が
このカテゴリーに入ります。
私たちが学んだものはすべて、
私たちの
可能性を表現するために、
与えられた
ひとつの機会だったということです。
ここに、
個人の人生や議題を持たず、
師のヴィジョンとミッションを
同時に共有する
人々のグループが出来ました。
そして、また別に、
自らの議題を持つ
弟子と「呼ばれる」人々の
グループがあります。
何人かは、
サンニャーシンや
カルマ・サンニャーシンとなる
トレーニングを受けて、
ヨガを、
人生において、
自らのキャリアを
立ち上げる機会とみなす
弟子となります。
彼らは、
帰ってから、
「自らの」アーシュラムや
センターを立ち上げ、
人類への
無私の奉仕を
身に飾り、
自らの野望を
生きます。
彼らは、
自分自身の人生を
確立させるための
発射台として、
ヨガ、アーシュラム、
そして師を
利用します。
そこには、
師の素晴らしいヴィジョンや
ミッションを
ともに歩くという
意向すらありません。
多くの人々が、
今日では、
このカテゴリーに
落ちてしまいます。
Satyam Ka Avahan (Invoking the divine), July - August 2014.より
Sannyasa Peeth, Munger, Bihar, India.
www.biharyoga.net
www.satyamyogaprasad.net
www.yogamag.net
www.rikhiapeeth.net
www.rikhiapeeth.in
パラマハンサ・スワミ・ニランジャンアナンダ・サラスワティ
paramahamsa Swami Niranjanananda Saraswati
ビハール・スクール・オフ・ヨーガの霊的指導者
The Spiritual head of Bihar School of Yoga
Ψ サッティヤーナンダ / ビハール・スタイル・オブ・ヨーガ 東京 Ψ
Ψ Styananada / Bihar Style of Yoga Tokyo Ψ