坂本龍馬最初の伝記小説「汗血千里の駒」 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■坂本龍馬の大衆文化作品

小説、漫画、ドラマ、アニメ、沢山のメディアを通して愛され続ける坂本龍馬。

その坂本龍馬を扱った作品にはどのようなものがあるのでしょうか?


近年、ドラマにおいては福山雅治さん主演の大河ドラマ「龍馬伝」、TBS 日曜劇場「JIN -仁-」で内野聖陽さんが演じる坂本龍馬、舞台「刀剣乱舞」やアニメ「活劇刀剣乱舞」にも陸奥守吉行の以前の持ち主として坂本龍馬が登場しています。

しかし、一番最初の坂本龍馬を主役とした扱った作品はどのようなものだったのでしょうか?

またその時代はいつ頃だったのでしょうか?

今回は坂本龍馬の歴史を交えながら、最も古い最初の坂本龍馬を画いた大衆文化作品をご紹介したいと思います。


■ジャーナリスト「坂崎紫瀾」

2010年NHK大河ドラマ「龍馬伝」内で、「坂崎紫瀾」というジャーナリストが出てきたのを覚えている方はいらっしゃいますでしょうか?


大河ドラマ「龍馬伝」では、この「坂崎紫瀾」が坂本龍馬の伝記小説を書くために、岩崎弥太郎に取材に行き、その岩崎弥太郎の回想録として物語が進んで行くというものでした。


ドラマの中では、岩崎弥太郎の死と同時に物語は完結してしまいますが、史実には続きがあります。

岩崎弥太郎に取材をしていたジャーナリスト「坂崎紫瀾」が、そのあと様々なゆかりある人々に取材をし、資料を調べ、「坂本龍馬」という人物を一つの「伝記小説」として纏め上げました。

この伝記小説こそが、坂本龍馬を主人公にした最初の物語です。


■元祖坂本龍馬伝記小説「汗血千里駒」

「江戸」という時代が終わり、坂本龍馬が暗殺され、新しい時代「明治」を迎えるものの、維新の文明開化は、まだまだ本当の意味での市民に自由と平等が訪れているとは言えませんでした。

日本は、西洋列強に負けない強い国を造り、異国からの侵略を阻止する為、様々な改革を行う事となるのですが、この改革が、かなり強引なものでした。

その政策の中心にいたのが、実質的に最も権力を握っていた「維新の三傑」と称される内務卿「大久保利通」です。

この大久保利通が政府の最高の実権者として独裁体制を確立しており、大久保とその他の政治家による対立で、安定した国造りは行えておりませんでした。

こういった政府の権力に対抗する様に、「板垣死すとも、自由は死せず」で有名な、龍馬と同時代に生きた政治家「板垣退助」が東アジアで初となる国会開設の請願を行ったことに始まる「自由民権運動」が活発に行われました。

板垣退助

「自由民権運動」とは、政府の事例に反対し、国会開設・憲法制定・地租軽減・地方自治などを要求した明治初期の政治運動を言います。

板垣は坂本龍馬の意思を継ぎ「広く会議を興し万機公論に決すべし」を重視し、一人の権力者の意見ではなく、国会で話し合い政策を決めるという考えを主張し、後に「憲政の父・国会を創った男」と呼ばれるようになります。

当時、この自由民権運動の活発な志士の内の一人が、後に坂本龍馬伝記を書き上げる「坂崎紫瀾」その人でした。

「坂崎紫瀾」は、坂本龍馬と同じ土佐藩出身で、龍馬よりも十八歳下。
ちょうど龍馬が最初の剣術修行で旅に出た頃、江戸の土佐藩邸で生まれました。 

新聞の発行停止・演説禁止など政府の厳しい言論統制の中、公衆に訴えかける場所を求めて坂崎紫欄は「寄席芸人」となります。

「寄席芸人」とは大衆演芸場で、落語・講談・浪曲・漫才・奇術などを披露する人の事を言います。


しかし、この寄席芸人として行った、自由民権を訴える「民権講釈」は政府に対する「不敬罪」で禁錮刑の判決を受ける事になってしまいます。

そのような中、社説等で自由民権思想に基づく論説を発表しない代わりにある小説に想いを託します。

厳しい土佐の身分差別と戦い、真の平和を目指した坂本龍馬に明治維新の理想を求め、1883年(明治十六年)一月、高知の自由民権派の新聞「土陽新聞」にて政治小説として坂本龍馬伝記小説を書き始めます。


その伝記小説の名前は「汗血千里の駒」と言い、後に単行本化される際に「汗血千里駒」と名前が変わりますが、汗血千里駒は多くの人々の心をうち瞬く間に人気伝記小説となります。

この「汗血千里の駒」が坂本龍馬を人々のヒーローとしての立場を確立し、その後の坂本龍馬のイメージの基盤になったと言われています。


■坂崎紫欄の魂の結晶

「汗血千里の駒」というタイトルは、血のような汗を流すという中国西域産の名馬「汗血馬」からきた言葉で、一日千里を走る優れた馬、卓越した才を持つ人物を例えています。


この「汗血馬」と「坂本龍馬」を重ねて、「汗血千里の駒」となりました。

坂崎が小説を書くために取材を始めた当時の高知には、龍馬と直接ゆかりある人々がまだ生きており、「汗血千里の駒」は只の伝記小説では無く、歴史的資料としても貴重な文献的価値のあるものです。

中には「汗血千里の駒」は「フィクションで事実を粉飾しているのではないか?」というライバル紙の批判もありましたが、坂崎は「坂本龍馬本人の親戚に詳しく聞いたんだから確かだ」と言い返したり、元海援隊の方々、これについて知っていたら教えてくださいと「土陽新聞」を通して呼びかけたりもしていました。

ただし、「お龍→お良」「乙女→お留」「千葉佐那→千葉光子」など、登場人物の名前が史実から少し変えてあるのは、坂崎と同時代の人物であることに配慮したためだと考えられています。

坂崎は大阪から絵師山崎年信を招き挿絵も付けて掲載します。


この挿絵は現在復刻版として販売されている岩波文庫「汗血千里の駒」にも、当時のまま入れられています。

こういった坂崎の才能やジャーナリストとしての心意気が詰まったものが「汗血千里駒」だとも考えられます。

尚、物語は龍馬暗殺とその後日談まで描いており、一応完結していますが、最終回に次回を予告する文言が入っているので、厳密には未完となります。

要約すると、最も古い坂本龍馬を扱った大衆文化作品は「汗血千里の駒」であり、著者は「坂崎紫欄」、連載開始は明治十六年一月となります。







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