マリー・アントワネットの真実 其の一 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■悪女「マリー・アントワネット」

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」

一度は耳にした事のある方は多いのではないでしょうか?

原文は、仏: “Qu'ils mangent de la brioche”となり、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となります。




時は1789年、フランス。

フランス王妃の「マリー・アントワネット」は、豪華なベルサイユ宮殿でドレスやネックレスを買い漁り、浪費の限りを尽くし、フランスは財政が厳しくなり、市民には重税が課せられ、当時の主食であるパンを食べるお金も無くなります。

そのような市民に対してマリー・アントワネットが言った言葉が「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」

これにより市民は大激怒し、付いたあだ名が「赤字王妃」

その後、市民の怒りを買って「フランス革命」により、ギロチンで処刑されたと言われています。

このマリー・アントワネットは、日本でも王妃のイメージの典型とされており、原作は漫画でアニメや舞台で人気の「ベルサイユのばら」においても、天真爛漫な王妃として画かれています。

では、こういったマリー・アントワネットの噂は事実だったのでしょうか?

呂雉、西太后に並び「世界三大悪女」と称されるアントワネットは、本当に「悪女」だったのでしょうか?


■オーストリアの姫

少女時代のマリー・アントワネット

マリー・アントワネットは、1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生しました。

ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。

マリー・アントワネットは数あるヨーロッパ貴族の中で、断然ダントツの名門であるハプスブルク家の生まれで母の女大公とはオーストリアの領主を意味します。

つまり、マリー・アントワネットはオーストリアの正当な姫君でした。

そんなハプスブルク家は、イギリス以外の全ての王家と姻戚関係にあり、唯一のライバル関係にあったのが、フランス王家であるブルボン家でした。


マリー・アントワネットの母であるマリア・テレジアは、長年宿敵であったオーストリアとフランスの同盟を決意し、その証としてブルボン家フランス国王の息子・ルイ16世とマリアテレジアの娘にしてアントワネットの姉・マリア・カロリーナが嫁ぐことになりました。

しかし、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へと嫁ぐことになります。

その結果、繰り上げで、ルイ16世の元へは数奇な巡り合わせで、マリー・アントワネットが嫁ぐことになりました。


■オーストリアとフランスの考えの違い


マリー・アントワネットは「フランス王太子妃マリー・アントワネット」と呼ばれることなり、アントワネットの夫のルイ16世より更に前のルイ14世の時に国税で建てられた贅沢の限りを尽くした非常に豪華なベルサイユ宮殿で暮らす事になります。

しかしそこで、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する事になります。


デュバリー夫人とは、アントワネットの夫・ルイ16世の祖父で現フランス国王ルイ15世の公妾であり、ベルサイユ宮殿内においてもかなり権力のある女性です。

当時の宮殿内にはいくつかの派閥があり、宰相ショワズール公爵が率いる親オーストリアのショワズール派。

国王ルイ15世の娘三姉妹が率いる宮廷のしきたりを重んじる保守派の信心派。

デュバリー夫人率いる国王の寵愛を武器に権勢を奮うデュバリー派。

アントワネットは信心派のルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられ、この派閥争いに利用される事になります。

また、オーストリアとフランスでは物事の価値観が大きく違い、フランスでは公式寵姫と呼ばれる独特の制度があり、男女ともに愛人を置くのが常識でした。

つまり、公然として「浮気」や「愛人」が許されている文化風習という事です。

唯一、ブルボン家の中で公式寵姫を置かなかったのは、アントワネット一人を愛し続けたルイ16世ただ一人だけです。

しかし、オーストリアにおいては、母・マリア・テレジアが娼婦や愛妾を非常に嫌っており、女性として品格と誇りを持って気高く生きる様に熱心にアントワネットに教育をしていました。

その為、アントワネットは立派な王太子妃であろうと振る舞い、デュバリー夫人を認める事が出来ませんでした。

それがアントワネットとデュバリー夫人の争いになり、後にアントワネットの処刑にも影響を及ぼす事になります。

また、アントワネットは王妃になると、ベルサイユ宮殿の無駄な仕来たりや悪しき風習を大きく改善します。

例えば、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユ宮殿での今までは当たり前であった習慣や儀式を廃止・緩和させました。

これにより王族を身近に感じる事ができ、親しみを持つ事が可能になったり、派閥争いによる王妃のご機嫌とりや、賄賂として高級な品物を隠れて献上する事なども出来なくなりました。

何故、アントワネットはこのように大きな変革をもたらしたのか?

実は、フランスを含めたヨーロッパの国々の常識では、宮廷の子供は幼い頃より親と引き離され、兄弟姉妹と遊ぶ事も無く、格式やしきたり作法を大事に教育施設で徹底的に教育されます。

ところが、アントワネットの故郷・オーストリアでの教育方針は違いました。


オーストリアは身分の高い者であっても、普段はラフな服で過ごし、堅苦しいしきたりや身分にこだわらない。

王族であっても、家族仲良く慎ましい市民階級の様な家庭が其処にありました。

アントワネットも、3歳年上の姉・マリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、この姉妹は非常に仲がよかったと言われています。

また、家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したり、幼いころからバレエやオペラを演じたり、主にアントワネットの父・フランツ1世の方針だと言われています。

しかし当時のベルサイユ宮殿は、醜い派閥争いや形だけの格式が重要視されていた部分もあり、アントワネットは父や母の教えを守り、そういった悪い部分を排除したかったのかも知れません。

ところが誰が王妃に下着を渡すかで揉めたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、自分の特権を奪われたと感じる者もおり、一部の貴族から逆に反感を買う事になります。


■浪費家「赤字王妃」

マリー・アントワネットが浪費家であると言われる理由が、パリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、賭博にも狂的に熱中したと言われており、高額なネックレスやドレスを買い占めたと噂されている所にあります。

そのせいでフランスの国家財政が傾いたという意見もありますが、確かに、マリー・アントワネットが仮面舞踏会や賭博に熱狂した時期はあったものの、子供が生まれたことをきっかけに止めています。

またマリー・アントワネットの使用した金額を全体で考えるとフランスという大国が傾くほどではなく、結局フランスを傾けたのはアントワネットの夫・ルイ16世の更に前のルイ14世の行った数々の出費であったと言われています。

アントワネットの夫・ルイ16世の父の更に前の代に、時の国王・ルイ14世。

ルイ14世

王朝の最盛期を築き、「ルイ大王」、「太陽王」と呼ばれました。

アントワネットの時代のフランスには、国王の下に三つの身分に分かれており、第一身分の「聖職者」
第二身分の「貴族」
第三身分の「平民」


第一身分と第二身分には、税金も無ければ、自分の領地の裁判権等の特別な権限が与えられており、国王・聖職者・貴族が贅沢出来る資金は全て、第三身分の「平民」から支払われていました。

そして「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする「王権神授説」を、フランスで最初に確立させたのが、ルイ14世であり、「そんなことをなさっては国家と民のためになりません」と問われた際に、「朕は国家なり(L'État, c'est moi)」という言葉を言ったとされています。

ルイ14世は、1681年にベルサイユ宮殿の造営事業を開始し、他国への侵略に莫大な軍事費用を積み重ねます。

そう、ルイ16世とアントワネットの時代に、第三身分の「平民」の暮らしが苦しくなったとされるのは、アントワネットの浪費等ではなく、このルイ14世の行った政策の借金が原因だったとされます。

それに対して、通常王妃になると自らの権力を誇示する為に、莫大な税金を使い城を建築したりするものですが、マリー・アントワネットは自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者の為にカンパを募ったり、自らの子供へのおもちゃを我慢したりもしていました。

つまり、マリー・アントワネットは若い頃は一時の誤りはあったものの、その後は決して浪費家などではなく、むしろ質素に貧しい者の為に貢献していた王妃でした。

では何故、アントワネットには根も葉もない噂が流されてしまうのか?


アントワネットは、ベルサイユ宮殿にて様々な改革を行いますが、これを良く思わない保守派の貴族から反感を買ってしまい、度々陰で批難されてしまいます。

また悪事や政治的な理由で宮廷を追われた者達や、アントワネットと対立したデュ・バリー夫人の居城にしばしば人が集まり出し、ベルサイユ宮殿以外の場所でアントワネットの悪い噂を流されてしまいます。

特に、パリでアントワネットへの中傷が流れた事により、第三身分の「平民」達は、ルイ16世とアントワネットへの期待が大きかった分、「我々の暮らしが苦しいのは、王妃のマリー・アントワネットがルイ16世をたぶらかし、宮殿で無駄遣いをしているからだ」と間違った噂が瞬く間に伝染し、民衆の憎悪をかき立てることとなります。

こういった妬み、恨み、憎悪といった負の感情が、フランスを大混乱に陥れる「フランス革命」へと繋がっていく事となります。


■首飾り事件


この頃になると、一般市民の間では、マリー・アントワネットを指示する者はほとんど居なくなっていました。

そんなおり、更なる悲劇がアントワネットを襲います。

それは、「首飾り事件」と呼ばれるマリー・アントワネットの名前を語った詐欺師集団による被害です。


1785年に、王家の分家であるヴァロワ家の血を引くと称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が、王妃マリー・アントワネットの親しい友人だと吹聴してキリスト教の聖職者である、ルイ・ド・ロアン枢機卿に取り入りました。

このルイ・ド・ロアン枢機卿は、宮廷司祭長の地位にあり、ストラスブールの名家出身の聖職者でありながら、大変素行が悪く、酒や女におぼれ、マリー・アントワネットからは嫌われていました。

しかしルイ・ド・ロアン枢機卿は諦めることは無く、いつか王妃に取り入って宰相に出世する事を望んでいます。


そのようなおり、宝石商シャルル・ベーマーとそのパートナーであるポール・バッサンジュは、アントワネットの夫・ルイ16世の祖父・先王ルイ15世の注文を受け、大小540個のダイヤモンドからなる160万リーブルの首飾りを作製していました。

これはルイ15世の愛人デュ・バリー夫人のために注文されたものでしたが、先王ルイ15世の急逝により契約が破棄されてしまった物でした。

ところがこの首飾りは手元に残ってしまい、高額な商品を抱えて困った宝石商ベーマーはこれをマリー・アントワネットに売りつけようと考えます。

アントワネットは高額であり、敵対していたデュ・バリー夫人のために作られたものであることから購入を断りました。

そこでベーマーは王妃と親しいと称するジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人に、仲介を依頼した事が始まりとなります。


ジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人は、この首飾りを利用して一儲けが出来るのではないかと詐欺の計画を考えます。

1785年1月、ジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人はロアン枢機卿に、マリー・アントワネットが、「その首飾りを購入する」 との要望を受けたと偽りを述べます。

そしてジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿を通して宝石商のベーマーに金銭の請求は宮殿のマリー・アントワネットが払ってくれると述べ、ロアン枢機卿へ首飾りを代理購入をさせます。


ロアン枢機卿は、マリー・アントワネットに恩を売る念願のチャンスだと思い、ジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人に騙されます。
 
ジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人は、ロアン枢機卿より首飾りを受けとると、それをバラバラにしてジャンヌの夫であるラ・モット伯爵と計画の協力者達によりロンドンで売りさばきました。


しばらくして首飾りの代金が支払われないことに業を煮やした宝石商ベーマーが、支払いは「どのようになっていますか?」とマリー・アントワネット王妃の側近に面会して問います。

すると、そもそもマリー・アントワネットは首飾りを購入してほしいなどと、ジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人に言っていない事が判明し、同年8月、ロアン枢機卿とジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人、ニコル・ドリヴァが逮捕されました。

ジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人は、この時、ロアン枢機卿と懇意であったが事件とは無関係とされる詐欺師、カリオストロ伯爵を事件の首謀者として告発し、カリオストロ伯爵夫妻も逮捕されました。

しかし、ジャンヌの夫のラ・モット伯爵はロンドンに逃亡してしまい、逮捕する事は出来ませんでした。

1786年5月、ロアン枢機卿はカリオストロ伯爵夫妻、ニコル・ドリヴァとともに無罪となり、ラ・モット伯爵夫人だけが有罪となります。

後に、マリー・アントワネットとジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人は「友人」どころか、個人的には「一度も会ったことが無かった」事が判明します。

ところが、この「首飾り事件」をアントワネットを良く思わない貴族達に利用され、第三身分の「平民」の間で「マリー・アントワネットとジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人は愛人関係にあり、この事件はそもそもマリー・アントワネットが首謀者で罪をジャンヌ・ラ・モット伯爵夫人に擦り付けた」と噂されるようになります。


何の罪も無いマリー・アントワネットは、ジャンヌに利用され、詐欺被害のみならず、有らぬ噂を流されてしまう事になり、こういった噂が、アントワネットへの不信感を募らせ「フランス革命」への口火を切る事となります。


其の二へ続く___。






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