「海援隊」「陸援隊」「翔天隊」とは? | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■「海援隊」とは?

坂本龍馬が創設し、自らが隊長を務めた海軍組織に「海援隊」があります。

海援隊は日本で初めての西洋蒸気船を使用する運輸貿易商社としての一面もあり、海軍術・航海術・商法の活動を三本柱とした教育学校も兼ねた海軍でした。

※詳しくは以前投稿した「海援隊の給料」の記事をご参照下さい。

 海援隊の隊士は水夫や火夫も含めて約五十人ほどおり、藩や身分に関わりの無く、様々な者が集まっていました。


土佐藩ー坂本龍馬、高松太郎、沢村惣之丞、新宮馬之助、千屋寅之助、長岡謙吉、石田英吉等。

越前藩ー関義臣、小谷耕蔵等。

越後長岡藩ー白峰駿馬等。

紀州藩ー陸奥陽之助。

基本理念等は、隊則である「海援隊約規」に表れています。

入隊資格は「およそかって本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る」

出身が世間では対立している藩同士であっても、海援隊内では皆同じ、「日本人」の仲間として活動するというのが海援隊の特徴です。

海援隊の名前の由来は「海から土佐藩を援護するという」意味から来ていると言われています。

また海援隊は坂本龍馬暗殺後に解散してしまいますが、海援隊士はそれぞれの分野で龍馬の意志を受け継ぎ、「陸奥陽之助」は外務大臣、「中島信行」は衆議院議長、「石田英吉」は長崎県令等と活躍し、日本を護ることに奔走します。

長崎土佐商会主任として海援隊の台所を任されていた「岩崎弥太郎」も、三菱を起こし日本経済の発展に寄与し、現在の三菱財閥を作り上げました。

三菱グループの社章は、土佐藩の藩主山内家の家紋から生まれたと言われています。

三菱の社章↑

山内家の家紋↑


■「陸援隊」とは?

坂本龍馬の海援隊と並び称されるものに「陸援隊」という組織があります。

「海援隊」は坂本龍馬が隊長を務める海軍なのに対し、「陸援隊」は中岡慎太郎が隊長を務める陸軍です。

中岡慎太郎

その中岡慎太郎は、坂本龍馬と同郷の土佐藩出身で、龍馬の親友である武市半平太に忠誠を近い尊皇攘夷に尽力していた人物として有名です。

「陸援隊」は慶応三年四月に海援隊が発足すると、続いて七月二十九日、中岡慎太郎が発足させました。

海援隊と陸援隊の大きな違いは、「海援隊」は日本を強くする為の海軍であると同時に教育施設や貿易商社として生まれた組織でありますが、「陸援隊」は完全に討幕運動のために発足された軍事を主とする陸軍といった形でした。

つまり、海援隊は自衛としての国防を旨としており、陸援隊は戦争で幕府を討ち倒す為の組織という事です。

副隊長は田中光顕で、「海援隊」は長崎にいる土佐藩参政「後藤象二郎」が管轄しましたが、「陸援隊」は京都の参政「福岡孝弟」が管轄しました。

陸援隊の兵士は、五十人から七十人ほど集まったとされ、福岡により土佐藩低から食事が支給されました。

隊内における洋式軍学の教授は、薩摩藩から鈴木武五郎が派遣され、支援の「十津川郷士」ら五十人とともに、討幕の挙兵に向けて洋式調練を行いました。

奇しくも陸援隊発足からわずか三ヶ月半の後、十一月十五日「近江屋」にて「十津川郷士」を名乗る刺客に坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される事になります。

龍馬と中岡は、こういった「十津川郷士」に繋がりも多かった事から、近江屋の門番をしていた山田藤吉は対応に油断してしまったと言われています。

中岡慎太郎の死後、「陸援隊」は副隊長の田中光顕が指揮し、十二月に高野山に屯集して、紀州藩の動きを牽制したと伝わります。

以後、自藩に帰る者を除き、親兵に改編され「陸援隊」は解散しました。


■幻の「翔天隊」とは?

福岡孝弟

土佐藩参政福岡孝弟の「福岡孝弟手記」にこうあります。

「右五則海援隊約規、交法簡易、何ゾ繁砕ヲ得ン。元是、翔天ノ鶴其飛フ所ニ任ス。豈樊中ノ物ナランヤ。今後海陸ヲ合セ号シテ翔天隊ト云ン。亦究竟此意ヲ失スル勿レ」

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意味

我々は天を翔ける鶴、その飛ぶ所に任す。
鳥かごの中に入るものではない。
今後、海の海援隊だけでなく、陸援隊をあわせて「翔天隊」と言わん。
この理想と精神を忘れてはならない。

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「陸援隊」を管轄していた福岡孝弟には、土佐藩の外郭軍事組織としての遊撃隊を設立する構想があり、その手記によれば「海外開拓」と「陸上斡旋」に志ある者を募り、それぞれ海陸を補って二つの隊を結成、活動させるというものでした。

そこで福岡は、坂本龍馬の「海援隊」と同じく土佐藩出身の中岡慎太郎の「陸援隊」を合わせて「翔天隊」として将来的に活動させる事を考えていました。

これは現在の「海上自衛隊」「陸上自衛隊」を管轄する防衛省の様なものに近い発想であると思います。

「翔天隊」の呼び名は、龍馬暗殺後、二代目海援隊隊長となる長岡謙吉が国許の知人に宛てた書簡の中にも見られることから、「翔天隊」構想は龍馬や中岡慎太郎にも伝えられていたことはほぼ間違いないと言われています。

しかし、龍馬も中岡も共に暗殺されてしまった事から「翔天隊」は自然消滅してしまい、実現する事の無い幻の名称になってしまいました。

もし二人が生きていたならば、龍馬は「翔天隊」として世界中を翔回り、「海援隊」と同じくらいに「翔天隊」の知名度も高かったのでは無いでしょうか?








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