■写真は名刺?
「写真を撮ると魂を抜かれる」
そんな言葉を聞いた事は無いでしょうか?
江戸時代の写真は、箱形のカメラの前に動かずじっと構えていなければフィルムに焼き付ける事が出来ず、しかもそれが長時間かかった事から写真を撮られた者はぐっと疲れが残り、まるで魂が箱形のカメラに吸い撮られた様に見えた事からこのような迷信が広まったと言われています。
では、幕末の志士達はどうだったのでしょうか?
坂本龍馬にまつわる話しでこんなものがあります。
龍馬が近江屋で暗殺される半月前の慶応三年十一月初め、龍馬は松平春嶽に謁見して、投宿している「煙草屋」に蟄居中の三岡八郎を呼んで話し込みました。
その時、龍馬は三岡に自分の写真を出し「写真を一枚やろうか」と言います。
これに対し三岡は「おお、くれ」と受け取ったと言われています。
実は、当時の幕末の志士の間では、自分の写真を焼き増ししてもらい、商談の際に持ち寄り写真を交換をしたりしていたそうで、現在の「名刺」に近いものとして扱われていたそうです。
江戸市民の間では、魂を抜かれると怖れられていた写真撮影も、命懸けだった志士達にとっては「ただの迷信」と意に介さなかったのかも知れません。
■坂本龍馬の写真は何枚ある?
坂本龍馬の写真は何枚現存しているのでしょうか?
何枚現存しているのかは、正確には分かっていません。
では、坂本龍馬の写真は全部で何種類あるのでしょうか?
これに関しましては、現存しているものは公式で「6種類」あると言われています。
■龍馬の脇差
上記の写真の中で、「写真A」の龍馬の短刀を見ていただくと不自然な点があります。
幕末史研究会主宰の小美濃清明氏が発見し、現在も研究をされているそうなのですが、この写真の龍馬の短刀の差し方が通常と違い間違った差し方をしているのです。
本来ならば短刀は袴の下を通す為、刀の鞘の鍔本は隠れ、鞘は袴の中から出てくるはずなのですが、この写真の龍馬の差し方は帯の下を通しているだけですので、刀の全体が写っています。
また、この差し方で歩いたり走ったりしすると、短刀がするりと地面に落ちてしまう事になります。
つまり、龍馬は写真を撮影する際に、わざわざ日常生活の困難な差し方に短刀を差し直したという事になります。
それは何故なのか?
それはまだ研究中で分かってはいないそうです。
この短刀は、もしかしたら龍馬が自慢をしていた「相州伝正宗」かも知れません。
龍馬の妻・お龍が、龍馬の死後に三吉慎蔵を頼っており、その三ヶ月後土佐へ移る際に「相州伝正宗」を龍馬の遺物として三吉に贈ったとされています。
真実は分かりませんが、龍馬が大切な刀だったので、あえて写真におさめたかったのかも知れません。
この様に他の現存している写真にも、まだまだ分かっていない龍馬の一面が隠されているのではないでしょうか?
更にこの写真には面白いエピソードがあり、土佐三伯の一人と評され、維新以降数々の大臣や大阪府知事を勤めた「後藤象二郎」に、この写真の龍馬とそっくりのポーズをした写真が残されています。
一説には、坂本龍馬の活躍に嫉妬して真似をしたとする話しも残っており、後藤象二郎のお茶目な一面を読み取ることができます。