龍馬の故郷、土佐藩の身分差別はなぜ生まれたか? | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■龍馬の生まれた「土佐」


龍馬が生まれた「土佐」という地は、どういった場所だったのでしょうか?

土佐藩は、現在の高知県とほぼ同じ場所に存在し、古くは「土左」「都佐」とも書き、「土州」とも呼ばれました。

北は山々に囲まれ、南は太平洋に面した温暖な土地で、土佐の歴史の中で多くの支配者が入れ替わり立ち代わり治めた国です。

戦国時代初期までは細川氏が支配したものの、「土地の七守護」のうちの長宗我部氏が他の六氏、さらに一条氏を倒し土佐一国を統一し土佐の国主となります。

それが「長宗我部元親」であり、その家臣が坂本龍馬ら「下士」の先祖になります。

長宗我部元親は豊臣秀吉に土佐一国を安堵され、正式に土佐の支配者となります。


■土佐の身分差別 


坂本龍馬の生まれた「土佐」には、激しい身分差別がありました。

よく他藩では、武士や町人、百姓の間で武力による支配があったり、武士内においても身分による理不尽や悪政といったものはあった様ですが、ここ土佐藩においては全国でも稀にみる非常に厳しい身分による格差があったとされます。

それは何も「士農工商」の間によるものだけではなく、同じ武士の身分において「上士」と「下士」というものがあり、それが特に酷かったと言います。

何があっても「下士」は「上士」に逆らうことは許されず、「下士」の身分の者は着るものの差別はもちろん、日傘を差したり下駄を履くことも禁じられ、「上士」による無礼討ちが許されるとなり、「下士」の命は非常に軽く扱われました。

もし「下士」が「上士」に無礼を働いたり、反抗をしたものなら、親戚を含めた一族郎党全てが死罪などの重い処罰を受ける事となり、ここ「土佐」においては「下士」は武士であるのに百姓よりも低く扱われ、とても苦しいものでした。


■龍馬の「郷士」という身分は「下士」

「上士」とは家老・中老・馬廻組・小姓組・留守居組の五つで編成されます。

「下士」とは郷士・用人・徒士・足軽・小者の五つになります。

そのうち、龍馬の親友「武市半平太」は「郷士」の中では最も高い「白札郷士」という身分ではあったものの、しょせんは下士であり、人斬り以蔵こと「岡田以蔵」は「郷士」であったとも「足軽」であったとも伝わります。


では、坂本龍馬はどうだったのか?

結論からお話しすると下士の「郷士」という身分になります。

元々坂本家は、「才谷屋」という質屋を開業している商家でした。

ところが宝暦十三年(1763年)に土佐の西端に位置する幡多郡を開発するため「郷士」の身分ではありますが、「武士になりたい者」が募集される機会があり、龍馬の玄祖父・八郎兵衛直益がこれに応募し、「幡多郷士」になります。


その結果、坂本家は「町人」の身分から「武士」の身分へと繰り上がり、幕末の頃には家老福岡宮内の「御預郷士」となり、湾岸警備や有事の際には担当の海岸線に駆け付ける「駆付郷士」となります。

また龍馬の父・八平は墓所警備を担当しており、坂本家は代々「警備」を担当する「下士」であったと言えます。


■土佐における全ての「身分差別」の始まりは「戦国時代」にある


では、なぜ「土佐藩」では、「下士」が「上士」から酷い差別を受けなければ成らなかったのか?

それは遡ること、戦国時代の流れを知らなければなりません。

坂本龍馬が生きていた頃の「江戸時代」に土佐藩を支配していた藩主は「山内」氏になりますが、山内氏以前、そもそも「戦国時代」に土佐を支配していた国主は「長宗我部」氏になります。

いつ国主が変わったのか?

それは、慶長五年九月十五日に天下を二分した「関ヶ原の戦い」を機に入れ替わります。


「関ヶ原の戦い」は戦国時代がお好きな方はご存知だと思いますが、天下人「豊臣秀吉」の死後、豊臣政権内で意見の対立した「石田三成」派と「徳川家康」派の二つが「西軍」、「東軍」に分かれ、その後の日本を大きく変える事になる大合戦 です。

坂本龍馬ら「下士」の先祖が仕えた「長宗我部元親」の子「長宗我部盛親」はその際に「石田三成」派である「西軍」につきます。

しかし、この大合戦は「徳川家康」が率いる「東軍」が勝利をし、石田三成派の「西軍」には厳しい処罰が与えられます。

「長宗我部盛親」は土佐を没収され、その後も「豊臣家」を守護する為に「徳川家康」と対立しますが、「大阪の陣」で敗北し処刑されます。

最後まで「豊臣」の忠義の為に戦った「長宗我部」氏ですが、「徳川」に滅ぼされ、結果的に土佐には新しく徳川家康の家臣「山内一豊」が派遣され国主となります。

こうして、土佐は「長宗我部」から「山内」へと支配が移ることとなります。


■徳川家康が作った身分制度


「徳川家康」は天下人となると、「徳川幕府」を設立し、「征夷大将軍」となります。

その徳川家康が力を入れたものに「身分制度」があります。

徳川家康が治める江戸時代は身分制度が厳しく定められた時代です。

それ以前の豊臣秀吉の時代からの刀狩の政策を受け継ぎ、人々を「武士・百姓・町人」に区別する支配制度を確立させ、身分による特権を与えます。

これにより、身分は用意に変更する事が禁止され、「身分の高い者」の子はその高い身分を受け継ぎ、「身分の低い者」の子は、どれだけ努力しようが低い身分のままという「世襲制」となり、年数を重ねる事に身分の権力による差別や支配を生むことになります。

また、徳川家康は大名を三つに分けます。

一つは「親藩」と呼ばれ、徳川将軍家と直接的な血縁関係にあり、大きな権力を与えます。
その中でも紀伊・尾張・水戸の三藩を「徳川御三家」と呼ばれます。

次に力を与えたのが、「譜代大名」と呼ばれ、「関ヶ原の戦い」以前から徳川氏に従っていた家臣です。
代表的な大名は、井伊氏や稲葉氏であり、主に江戸の周辺国や京都・大阪周辺などの要地に配置されています。

そして三つ目が「外様大名」で、「関ヶ原の戦い」前後から徳川家に従った家臣です。
山内一豊の「山内」家もここに含まれ、元は豊臣秀吉の家臣ではありましたが、関ヶ原で徳川に味方した功績により土佐藩を家康に任されます。

このように大名間にも差を付け、「徳川は特別なもの」として徳川の世を磐石なものとなる政策を行います。

ここまでで、上記以外の徳川に敵対した大名やその家来達の多くは、死罪や奴隷としての身分に落ちる事になります。

坂本龍馬の生きた時代の「下士」という身分も「長宗我部」の家臣であった者達が長宗我部盛親の死後になった身分であった為、土佐においては「上士」の奴隷の様な立ち位置となります。

つまり、徳川家に味方した「山内一豊」の家臣達は土佐藩の「上士」となり、豊臣家に味方した「長宗我部盛親」の関ヶ原以降生き残った家臣達は「下士」となり支配される事になりました。

これが土佐特有の、武士の間に存在する「上士」と「下士」の身分差別となります。

山内家は、長宗我部の残党である「下士」の反乱を恐れ、その気を起こさせない為に格差と武力支配に差をつけたと言います。

徳川家康も、主君を今川義元→今川氏真→足利義昭→織田信長→豊臣秀吉→豊臣秀頼と変え仕えて来ました。

そして最初に最も天下に近かったと言われる織田信長に仕えていた頃、信長は家臣の明智光秀の謀反により討死します。



更にその光秀を討った豊臣秀吉は、織田家に政権を渡さず自らが天下人となります。


そして、その豊臣家から政権を奪ったのは家康本人であり、数々の天下人が裏切りにより政権を奪われてきてしまった姿を目の当たりにしてきたからこそ、徳川家康は徹底して「徳川の世」の地盤を「身分」という形で固めたのではないでしょうか?

私は徳川家康も、また偉大な人物であったと考えますし、江戸の長い安泰が続いたのは、間違いなく徳川幕府の功績が非常に大きかったのだと思います。
また、現在評価されている家康が行った数々の偉業がある事も事実です。

しかし、その「身分」により、徳川に虐げられてきた者達は、生まれた時から格差のある環境であり、非常に生きづらい世であったのも事実であったのだと思います。

奇しくも「倒幕」の主となり新政府を築いた者の多くが、かつて関ヶ原で徳川と対立し「豊臣」側に味方した大名やその家臣達の末裔となります。





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