局中法度の考案者は土方歳三じゃない? | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■局中法度を作ったのは誰?

新選組の鉄の掟「局中法度」

正しくは「局中法度書」と呼ばれ、ドラマなどでは、新選組副長土方歳三が隊内を纏め上げる為に考案し、以下の五ヶ条はたとえ幹部であっても破れば切腹と大変恐ろしいものと画かれています。

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「局中法度書」

一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
右条々相背候者切腹申付ベク候也 

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しかし、本当に局中法度書は存在したのでしょうか?

また土方歳三が考案したのでしょうか?

以下に順を追ってご説明したいと思います。

新選組副長土方歳三

■局中法度書は存在したのか? 

まず、新選組の記録については、隊士の残した書物や明治の世に生き残った二番隊組長・永倉新八や三番隊組長・斎藤一の口伝や書物により伝わっています。

特に永倉新八は、明治時代「浪士文久報国記事」や「七ケ所手負場所顕ス」を記し、小樽新聞記者吉島力の取材に協力し、「新選組顛末記」を残しました。

前列中央:永倉新八

この「新選組顛末記」が大正時代に小樽新聞で連載され、更に昭和三年(1928年)に子母澤寛作「新選組始末記」、平尾道雄作「新撰組史録」が刊行されると、「新選組は悪の人斬り集団、悪の使者」という従来の固定観念が崩れ、新選組の再評価と爆発的な人気を生み、現在に至ります。

では「局中法度書」という言葉はいつ頃から記録に出てくるのか?

実は「局中法度書」とその五ヶ条が記録として最初に出てくるのは、昭和三年の子母澤寛作「新選組始末記」になります。

それ以前においての記録には、全く出てくることはありません。

子母澤寛作の「新選組始末記」は創作要素も多分に含んでいた事から、現代の専門家によれば「局中法度書」はそもそも存在していなかったとの見解で一致しております。

しかし、子母澤寛は新選組の物語を書くに辺り、ただ何も無い所から創作したのではなく、あるエピソードをアレンジしたのでは無いかと言われています。


■永倉新八の証言「禁令」
 
二番隊組長・永倉新八が後に書き残した「新選組新選組顛末記」にある「禁令」と呼ばれる新選組隊士規定が記されています。

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「禁令」

一、士道ニ背ク事
一、局ヲ脱スル事
一、勝手ニ金策致事
一、勝手ニ訴訟取扱事
右条々相背候者切腹申付ベク候也 

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「局中法度書」との違いは、五ヶ条では無く四ヶ条であること。
「一、私ノ闘争ヲ不許」が無くなっているということ。
以上の二点の違いがあります。

また、新選組の軍規に「軍中法度」というものがあります。
「軍中法度」の中には、「私の遺恨これ候えども、陣中において宣嘩口論仕るまじき事」とあります。

子母澤寛は、この「禁令」と「軍中法度」を組み合わせて「局中法度書」を創作したのではないかと言われます。


■「禁令」は土方歳三が考案した?

「局中法度書」の元となった「禁令」は誰が考案したのか?

よく時代劇などでは「局中法度書」は新選組を纏める為に、副長・土方歳三が鉄の掟として考案したと画かれますが、こちらも後の世に作られた創作だと考えられています。

永倉新八が残した記録によると「禁令」の四ヶ条は、両局長・芹沢鴨と近藤勇により考案されたとされています。

ここに土方歳三が関わっていたかは分かりませんが、土方歳三の名は出てきません。

以上の事から「局中法度」は存在せず、また元になった「禁令」の考案者は芹沢・近藤両名というのが記録上は正しいという事になります。

しかし、私個人としては、この「禁令」を誰よりも武士らしく守り生涯を全うしたのは、「土方歳三」だったのでは無いかと考えています。


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