坂本龍馬のピストルと寺田屋事件 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■坂本龍馬の「ピストル」

「坂本龍馬といえばピストル」

と言われるほど、漫画やアニメ、時代劇で、その片手には拳銃が握られている強いイメージを持ってらっしゃる方も多いのでは無いしょうか?


坂本龍馬が所持していたピストルは、「スミス&ウェッソンⅡ型アーミー 32口径(真物はアメリカ製)回転弾倉付き6連発 」と言われています。

詳細においては、龍馬が慶応二年(1866年)十二月四日付の兄権平と一同宛ての手紙の中にも「六連炮」として記されています。

さらに龍馬は「スミス&ウェッソンⅡ型アーミー 回転弾倉付き6連発」とは別に、もう一挺のピストルを所持しており、こちらは「スミス&ウェッソンⅠ型アーミー 回転弾倉付き5連発」だったとされます。

この説が正しければ龍馬は二挺のピストルを所持しており、この「スミス&ウェッソンⅡ型アーミー」の方は、文久二年(1862年)六月に遊学していた上海で高杉晋作が購入し、龍馬に護身用として手渡したものだと言われます。 


ではそのピストルを、龍馬が使用した記録はあるのでしょうか?

現存している記録では、一件「寺田屋」にて使用したと残されています。


慶応二年(1866年)一月二十二日、龍馬は薩摩藩と長州藩を結びつける薩長同盟という大仕事を成し遂げた直後。

二十三日夜に「寺田屋」に戻り、龍馬の警備と護衛を任されていた長州藩士三吉慎蔵と祝杯をあげていました。

しかしここしばらく幕府は、長州征伐に加担しない薩摩藩の動きを不審に思っており、何者かが薩摩藩と通じていると寺田屋にも幕府の官吏がうろつき、一日ごとに与力が顔を出しているほどでした。

そのたびに龍馬の留守中、寺田屋の女将のお登勢は、三吉を押し入れに隠してやり過ごしたと言われます。

三吉慎蔵は、宝蔵院流槍術の達人で坂本龍馬に心底惚れ込んでいたと伝えられています。
三吉は龍馬を「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」と言い残しています。

この二十三日夜も、龍馬と三吉は夜遅くまで酒を飲みながら話し込み、女将のお登勢が風呂に入ったのは午前二時頃。

つづいて娘のお力とお龍が風呂に入りました。

ちょうどこの頃、伏見奉行配下の官吏達が「寺田屋」を取り囲んでいました。
どこから情報が漏れたのか、伏見奉行の組織は与力十人と若党二十人、同心五十人に供の者さらに五十人がついており、全員が繰り出したならば計百三十人という大捕物となります。

お力とお龍が風呂から出たところで、表戸を叩く音がし、お登勢が出ると捕り方の一人が「二階に武士がふたりおろう。取り調べのことがあって出向いている。隠し立てはならん。ありていに申せ」と言いました。

お登勢の反応から龍馬がいる事を確信した捕り方が、だれが最初に踏み込むか躊躇している一瞬の隙をつき、お龍が二階の龍馬と三吉に急を知らせるため、階段を駆け上がりました。

龍馬はこの後に「寺田屋事件」と呼ばれるこの出来事を兄に宛てた手紙に活劇小説のように詳しく書いています。

この時、三吉慎蔵は袴をはいており大小の刀も差し、得意の手槍を持っていましたが、龍馬は近くに袴がなかったため、腰帯に大小の刀を差し、右手にピストルを握りました。

部屋に侵入してきた捕り方に、龍馬たちは怪しい者では無く、ただの「薩摩藩士」であると主張するが、信じるはずもなく、すぐに乱闘となりました。


お龍の証言は以下のようにあります。

「乱闘の中、龍馬が放ったピストルの弾は、一発目は外れ、二発目は龕灯を持っている者に命中、三発目も命中し、四発目が命中した捕り方は、五、六人を巻き込みながら階段を落ちていった。

そのうち、物陰から襲いかかった者が、龍馬の右手の親指の関節を切り、さらに左手の親指の関節、人差し指の根元を切った。
龍馬がその者に銃口を向けると、障子の陰に隠れた。

龍馬は五発目を打ったが、命中したかどうかわからない。
最後の一発は黒頭巾をかぶり、袴をつけ、槍をかまえた捕り方に狙いをつけた。
龍馬は三吉の左肩でピストルをささえて撃ち、見事命中した」

両手を負傷した龍馬は、新しい銃弾を入れようとお龍に命じて床の間の弾箱を運ばせようとするがうまくいかず、三吉が応戦しようとするがそれを止め、裏手から逃げる道を選びました。

龍馬と三吉はそのまま木材小屋に逃げ込み「追っ手に捕まるくらいなら、ここで切腹を」と言う三吉を「死ぬのは、いつでもできる。三吉は薩摩藩邸に走ってくれ」といさめます。

その後、お龍と三吉が命懸けで薩摩藩邸に辿り着き、薩摩藩の西郷隆盛の助力により、龍馬は瀕死の状態で救助されます。
この時、切られた指は皮一枚で、ほとんど垂れ下がっており、出血も多く、助かったのは奇跡に近かったと言われます。

また、伏見奉行所は薩摩藩邸に引き渡しを要求しましたが「そんな者はいない」と拒絶しました。
 

この一連の出来事が、坂本龍馬が唯一ピストルを使用した記録となります。

尚、手に傷を負った際に、ピストルも落としてしまい紛失したと伝わりますので、残念ながら龍馬のピストルは現存しておりません。


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