坂本龍馬の刀 其の三 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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■備前元重

「坂本龍馬手帳摘要」に備前兼元無銘刀研代と記されています。

しかし備前には「兼元」に該当する刀工がみられないので、これは字体の似る「兼光」の誤りで「備前兼光」では無いかとする考えもあります。

ところが長野桜岳「幕末志士愛刀物語」では龍馬佩刀として磨り上げ無銘の備前元重を挙げており、その説明には備前元重の初代作柄は備前兼光の二代目に非常に似ている為、これは「備前兼光」では無く「備前元重」では無いかと言われています。

この坂本龍馬の「備前元重」では無いかと考えられている刀は、山形市最上義光歴史館に保管されています。


■肥前忠広

刀剣乱舞の肥前忠広

最後にこの刀をご紹介致します。

肥前忠広は幕末四大人斬りの一人「人斬り以蔵 」と呼ばれた「岡田以蔵」の愛刀として知名度の高い刀です。

大河ドラマ「龍馬伝」では佐藤健さんが演じ、実写映画「るろうに剣心」の元になったと言われています。 


この岡田以蔵については、後日またご紹介したいと考えておりますが、今回は以蔵の愛刀と坂本龍馬がどのような関係があるのかをご紹介したいと思います。

刀工忠宏については、慶長~寛永頃まで初代忠広が作を残し、そののち八代幕末頃までに続いたと言われます。

名工とされ特に秀でた刀工としては初代肥前忠広、二代目近江大掾忠広、三代目肥前忠吉の名が挙がります。

初代は業物の最上級ランクとされる最上大業物13刀工。

二代目も初代と同じく傑出した刀工とされ、大業物として数えられています。

三代目肥前忠吉も初代忠広の子で最上大業物のひとりに数えられており、初代につぐ名工とされています。

岡田以蔵の愛刀である肥前忠広は、この初代忠広の作ではないかとされています。

以蔵は京都で暗殺家業に勤しむなか、本間精一郎を斬ったとき、肥前忠広は切っ先が折れたと記録されています。
しかし以蔵は、この刀を大事に方見放さず持ち、短刀に打ち直して使用し続けたと言われます。

なぜ?以蔵はそこまでこの刀を愛したのか?

実は肥前忠広は、坂本龍馬が岡田以蔵に贈った刀だと言われています。

岡田以蔵が師として仰ぐ武市半平太は坂本龍馬の親友だと言われておりますが、以蔵と龍馬の関係も深いもので以蔵にとって龍馬は兄のような存在であり、龍馬にとっても以蔵は弟のような存在で、とても可愛がっていた様です。

勝海舟の「氷川清和」にはこのような記述が残っています。

勝海舟を岡田以蔵が護衛している際に、三人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が一人を切り捨て一喝すると残り二人は逃亡したと記録されます。
後日、勝海舟が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭しましたが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返しました。
勝海舟は「これには俺も一言もなかったよ」と述べています。

勝海舟

実はこのエピソードは、龍馬が以蔵を勝海舟の護衛に推挙した事から始まります。
以蔵には暗殺ではなく、護る剣を振るって欲しいという願いと、勝海舟の思想を学び自分の意思で暗殺をするべきか考えて欲しいという願いがあったのでは無いかと感じます。

さらに龍馬は、この頃以蔵に一本の刀を贈ります。
それが肥前忠広です。

肥前忠広は樋入り刀身と赤飛沫塗鞘、彫金貼りの鍔で、鍔には赤と茶を基調とし龍が描かれています。

この刀は、姉乙女が兄権平に贈り、権平から龍馬へ渡ったとする説と、龍馬が土佐藩を脱藩するときに姉栄が命がけで龍馬に贈ったとするものがあります。
その後、姉栄は責任を取り自害したとする説も残っており、どちらにしても龍馬にとっては非常に大事な刀であった事は間違いありません。

そのような大切な刀を、岡田以蔵に贈るというのは、龍馬が以蔵を心から心配をしていた証拠では無いでしょうか?

以蔵もこの刀を大事にし続けたのは、龍馬の想いが込められたこの刀は、以蔵にとっては守り刀のような存在だったのでは無いでしょうか?

岡田以蔵の愛刀となった肥前忠弘は、以蔵亡き後「遊就館」に展示されていた時期もありましたが、現在はその行方が不明となっております。


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