■伊東甲子太郎は悪役だったのか?
伊東甲子太郎。
新選組参謀及び文学師範を務め、のちに御陵衛士盟主として名を馳せた甲子太郎ですが、新選組の漫画やドラマにおいては新選組を乗っ取ろうとするも、失敗して近藤・土方に成敗される悪役として画かれる事が定番になっている人物でもあります。
では果たして史実の甲子太郎も、そのような人物であったのでしょうか?
■苦労人甲子太郎
伊東甲子太郎は天保五年十二月三日(1835年1月1日)、常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の長男として生まれます。
のちに天才と称される甲子太郎も幼少より順風満帆であったわけではなく、父・忠明が家老との諍いによって隠居した為、甲子太郎が家督を相続したものの、忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、一家は領外へ追放されます。
しかし甲子太郎は落胆するのではなく、水戸へ遊学し剣術と勉学に必死に励みます。
剣術は神道無念流の金子健四郎に学び、学問は当時尊皇攘夷の最先端である水戸学を学び勤王思想に傾倒します。
その頃、父・忠明は高浜村東大橋にて村塾を主宰し、帰郷した甲子太郎も父と共に学んだ知識を広める事に尽力しました。
そして、中々日の目を浴びる事の無かった甲子太郎にも好機が訪れます。
それは江戸深川中川町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門した際、その甲子太郎の努力ぶりと力量を認められ、道場主の伊東誠一郎に婿養子に迎え入れられます。
北辰一刀流剣術といえば当時の名門であり、門人も多い事から、結果甲子太郎の名声は鰻登りで上昇する事になります。
そして、この北辰一刀流剣術の同門である新選組八番隊組長・藤堂平助の薦めで、新選組に加入すると参謀兼文学師範として遺憾なく才能を発揮する事になります。
■新選組の内部問題
藤堂平助が甲子太郎を新選組に誘い入れたのには理由があります。
当時、新選組はある内部問題を抱え、隊内では不満が爆発しつつありました。
平助は、こういった現状の新選組を変えたいと願って、甲子太郎に白羽の矢を立てたのだろうと言われています。
その事の発端は、甲子太郎・平助と同じ北辰一刀流剣術の同門である元新選組総長・山南敬助の脱走事件にあります。
新選組の結成を遡りますと、清河八郎による献策浪士組の結成か始まりです。
そもそも浪士組は「尊皇攘夷」の志を持った浪士の集まりでした。
当時、日本の唯一王である「天皇」が、外国人を打ち払いなさいと「徳川幕府」に上意を下すも、中々「徳川幕府」は攘夷(外国人を打ち払う事)を決行しませんでした。
その為、徳川将軍・徳川家茂に上洛をして天皇の御前にて「攘夷決行」の日時を約束するよう命じました。
この徳川将軍・徳川家茂が無事に「天皇」の御前で「攘夷」の約束をするまでの上洛を警護する目的で結成されたのが浪士組です。
つまり、新選組隊士のほとんどが、「天皇」を敬う「尊皇攘夷」の思想を持っていた志士でありました。
そして、その「尊皇攘夷」の先頭に立っていたのが水戸藩の「水戸天狗党」と「長州藩」の二つです。
しかし、新選組結成後は尊皇攘夷としての活動とは真逆の「尊攘派志士の弾圧活動」を行うのが業務になっていきます。
この新選組総長・山南敬助も新選組の行く末に異を唱えており、脱走原因もこの思想の違いによるものだと言われています。
その当時、新選組は隊士の数も増え、屯所移転の話が浮上していました。
局長・近藤勇、副長・土方歳三は壬生村が手狭になったことから屯所を京都市内の西本願寺に移転させるとします。
これに対立したのが、山南敬助です。
「西本願寺侍臣西村兼文」によると、西本願寺は尊皇攘夷の筆頭である「長州」の志士を匿っている拠点でもあり、そこを奪ってしまうと長州派の拠り所を奪ってしまう事になる。
山南は同じ尊皇攘夷の志を持つ者の拠点を奪うようなやり方は卑怯であると反対しますが、近藤土方の狙いは正に其処にあり、山南の案は却下されます。
こういった経路があり、山南と近藤・土方との対立を深め、山南は新選組を元のあるべき姿に戻す為に、あえて脱走し己が切腹する事で主張したとされています。
結果、他の隊士から人望が厚かった山南の死は、隊内に大きな混乱を招く事になります。
またこの頃になると、藤堂平助、永倉新八、原田佐之助等は近藤勇と口論になるような事もあったと記録される事から、あまり局長・副長と幹部との間は上手く立ち回ってはいなかったのかも知れません。
其の二へ続くーーー。