坂本龍馬「海援隊の給料」 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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 上記画像は坂本龍馬が設立したと言われる「海援隊」の隊旗になります。
下記画像は携帯会社として有名なソフトバンクのロゴマークですが、これは海援隊の隊旗からとられたと言われています。


大河ドラマ「西郷どん」では、この海援隊で商売に身を捧げる商人坂本龍馬として描かれていますが、はたして龍馬は「商人」だったのか?
「武士」であったのか?
本日はその坂本龍馬の給料についてのお話しをしたいと思います。

一般的に坂本龍馬は海援隊を使って貿易商売をしたイメージが強く、沢山給料も稼いでいたと勘違いされてしまいがちですが、実際のところ海援隊の給料は平隊士から隊長まで一律の三両二分、現在でいうところの約24万程度の稼ぎしかありませんでした。
この時、龍馬の年齢は30歳前後。

元来、江戸時代は命がけの武士よりも町民の方が稼ぎが良く、武士は貧しい生活をしていたことから「武士は食わねど高楊枝」という言葉が生まれた事は有名ですが、それでも同じ幕末を生きた新撰組では、平隊士でも十両、隊長から局長は二十両から五十両の給料が出ていたので、それに比べると龍馬達の稼ぎは余りにも少なく、とても裕福な暮らしは出来なかったと言われています。

これだけでも、一般的に勘違いされがちな「商人」としての坂本龍馬像が大きく違うという事を理解していただけると思いますが、なぜ龍馬達はお金儲けをしなかったのか?

それは、海援隊の目的がお金を稼ぐ事ではなく、真に日本の為に、人々が安心に暮らせる世を創る為に、活動していたからではないでしょうか?

先ほども記した通り、海援隊は、新入社員も社長である龍馬の給料も同額、また入隊するにあたり身分に関する記述は一切なく、入社資格は
「一、嘗テ本藩ヲ脱スル者。
一、他藩ヲ脱スル者。
一、世界ノ志アル者。」
のみでした。

また、龍馬は海援隊内で、
一、政法
一、火技
一、航海
一、気機
一、語学
の五項目のうち、各自の志願により就学勉強を勧めるなど、やる気のある若者は誰でも海援隊へ入隊させ、将来の為に勉強させる教育学校も兼ねていました。

つまり龍馬にとって自分自身の利益や欲の為ではなく、純粋に海援隊の仲間や国の為に、自身の給料を新入社員と同額にして、更に自分の稼ぎを隊士の教育にあてていたのだと思います。

それは、これから先の日本を守り創っていく、人材を育てるという事だと思います。


龍馬は「商人」ではなく、「武士」として国を憂い、人を守る為に「武力」に頼らず、「人」と「和」を手段にしていたのではないでしょうか?