「近江屋事件」 新撰組実行犯説 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

坂本龍馬のみならず、様々な歴史や文化の素晴らしさを広めていけたら良いなと考えております。歴史好きな方との交流も深められたら大変嬉しく思いますので、何か御座いましたらお気軽にTwitterまでご連絡下さい。

慶応3年11月15日、醤油商近江屋にて複数の刺客により、明治維新の立役者、坂本龍馬32歳の太く短い人生の幕を閉じます。

この事件の真犯人は未だ判明しておらず、実行犯は見廻組数名の者であるという説が現在有力であると言われています。

ところが当時は、実行犯は新撰組が真っ先に疑われ、その新撰組局長である近藤勇は兼ねてより倒幕運動を行っていた坂本龍馬を狙い暗殺命令を下した罪により、慶応4年4月25日板橋刑場にて新政府に処刑されています。
近藤勇は武士であるにもかかわらず、その内容は4月5日から尋問が始まり、25日に斬首。
更には3日間晒し首という、まるで極悪人を処刑するかのような処置に思えます。

そもそも、新撰組が龍馬暗殺の実行犯であると疑われた理由は、現場に残されていた刀の鞘が、新撰組隊士原田左之助の物であると御陵衛士から証言がとれたこと。
熱があったとはいえ、北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬を斬れる人物となると、斎藤一以外なかろうかとする憶測。
刺客が「こなくそ」と伊予弁を話したとされ、新撰組の原田左之助や大石鍬次郎らが伊予出身であった為、近藤勇は否定をしましたが当時はかなり信憑性の高い証拠と推理のもと、新撰組が犯人であるとの疑いがかけられました。

しかし私は近藤勇が真犯人に思えず、見廻組が実行犯である説が真相であり、近藤勇は濡れ衣をきせられ処刑されたのではないかと考えています。
なぜなら、坂本龍馬と近藤勇は実際に酒を呑み交わし友好関係にあったという記録が残っているからです。

それは坂崎紫瀾という人物が、明治43年2月13日に上野公園内の貸席見晴亭で講演を行った内容にあります。

その翌14日の新聞『萬朝報』に、坂崎紫瀾の講演の概要を伝える記事にある一文です。
「龍馬と勝海舟との深い交わりは言うまでもない。従って当時の志士の中でも、龍馬は慶喜公と幕府に深く同情していたから、幕府要路の人が龍馬を殺させたとは思われぬ。近藤勇が殺させたとも言うが、近藤は永井の紹介で後藤象二郎と懇意になり、後藤の紹介で龍馬とも往来し料理店で酒を共にした。寧ろ土藩の人には好意を持っていた」

つまり、この記事によれば坂本龍馬と近藤勇は酒を呑み交わし、近藤は龍馬に好意を示していた事になります。
さらに、近藤は龍馬との時間がとても有意義だったようで、その後も後藤へ龍馬との再会を希望する手紙を送り続けていたそうです。

龍馬は高杉晋作から譲り受けた拳銃を携帯していたことから、銃にばかり注目が集まってしまいがちですが、剣術や刀がとても大好きだったようで、剣術好きの近藤同様、大きな人柄、国を想う志と共通点も多かったように思います。
これほどまでの友好的な考えを持っていた、近藤勇が坂本龍馬暗殺の命令を下したとは考えにくいのではないでしょうか?



このblogを読んで、もし良かったと思っていただけたら、ぜひいいねと読者登録をよろしくお願い致します。
読者登録は以下のボタンからでも可能です。
読者登録してね