真田信繁生存説 其の一 | 坂本龍馬資料館ーRyoma Museumー

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真田信繁という武将はご存知でしょうか?

おそらくは真田幸村といった名前でなら、一度は耳にした事があるのではないでしょうか?

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」で主役を演じた赤備えの武将です。


詳しくは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名であり、武田の天才軍師真田昌幸の次男。
通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎。
生涯人を裏切らず、自分の志を真っ直ぐ貫いた人であり、戦死することとなる大阪の陣においては、豊臣の武将として神がかった強さを見せ「日本一の兵」と称された侍です。
ただし、そのあまりの武勇により、天下人徳川家康を最も恐れさせた武将として、信繁の名前を民衆が口に出しづらく、真田家代々受け継がれている「幸」の字と、徳川に仇なす妖刀「村正」の「村」の字を取り、「幸村」の名で広く知られるようになります。 

真田信繁は、慶長20年(1615)5月7日の大坂夏の陣において、豊臣の武将が次々と敗戦を重ね、勝利を諦める中、茶臼山に布陣し一斉射撃と突撃を繰り返し、陣形を崩した上で単騎で徳川軍15万に突撃し家康本陣を急襲します。
信繁は最後まで勝利を諦めず、敵方の総大将家康を討ちとろうというものでした。

7日正午には、ついに開戦し、真田隊は自軍の5倍に及ぶ1万5000の松平忠直隊を相手に奮戦します。

さらに徳川方の浅野長重が寝返ったという虚報に動揺した隙をついて突撃を続け、遂に家康の本陣にたどり着きました。


しかし、奮戦むなしく混乱から持ちなおした松平隊に包囲され、信繁はそれ以上の追撃を断念。
一説によれば薙刀を持ち奮戦し、徳川本陣にたどり着くと、馬上筒と呼ばれる乗馬した状態から放てる火縄銃を家康をめがけ発砲。
家康をあわやという所まで追い込み、切腹を決意させたといいます。

ところが、馬上筒の発砲音に馬が驚き、筒を落としてしまった信繁は、家康を討てる武器が無くなり、疲労のため撤退、安居神社で休息中のところを松平配下の西尾宗次によって討ちとられたと伝わります。

最期は敵と斬り結んだとも、黙って首を打たせたともいわれます。
享年49歳。



しかしこの信繁、実は大阪の陣では死んでおらず、落武者として豊臣総大将の秀頼を連れて、薩摩(現鹿児島県)へ逃げ延びたとする説があります。

そもそも、信繁は本当に大阪の陣で死んでいるのでしょうか?

西尾宗次に討たれたとする首は、家康が検分することになるのですが、家康の元へ届けられた首は西尾の物のみにあらず、複数あったと言われています。

「我こそが真田信繁を討ち取った」と意気込み届けられた首は、数こそ記録されていないものの多数。
真田家の関係史料「真武内伝」には、望月宇右衛門と穴山小助という二人の影武者の記述があります。

はたしてどの首が本当に信繁の首であるのかが分からなかった家康は、信繁の叔父真田信尹を呼び、本人確認するよう促します。
しかし、顔が潰れ腐敗した首は、どれも原型を留めておらず「似ているが死に顔なのでよく分からない」と信尹は証言します。
だか、これでは真田信繁を討ち取った事にはならないと、西尾宗次の首の兜が一番立派な「鹿の抱角」だったことにより、それを信繁の首と断定することとなりました。


つまり、その首が本当に真田信繁の首であったのか?
はたして本人の首であったのか?
もしかしたら、そこに並べられていたものは全て、信繁の影武者であった可能性もあったという事になります。

それと共に、大阪の陣の敗北により徳川が天下を収め、豊臣家滅亡直後、京であるわらべ歌が流行ることになります。

「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ」

これは真田信繁が生きており、豊臣秀頼を大阪城から連れ出し、薩摩(鹿児島県)へ逃亡したという内容です。


このわらべ歌の真相は如何なものなのか、次回の記事では具体的な信繁の逃亡にまつわる抜け穴や、全国に残る伝説を詳しくご紹介致します。

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