鏡に映る自分の顔は自分にとって完璧な自分である、と自分は思っていて、いつでもどこでも、自分はこういう顔をして、他人も自分をこういう顔をした人として見ているのだろうと思っている。(顔の作りが美しいとかそうでないという次元ではない)
しかし、ふとしたはずみで、街中のビルのガラスに映ってしまった自分の顔を見てビックリしたりする。何にビックリするかって、そこに映っているのは、いつも鏡で見ている自分の顔とは違って、目が半開きで怪しい目つきだったり、口が半開きでしまらない顔になってたり、暗いというか、パッとしないというか、とにかく自分の思惑とは違う顔なのだ。
な、なんだ、これは!こんな顔、自分の顔じゃない!なんで、こんな顔を映すのだ!このガラスめ!と心の中で目の前のガラスを罵り、いつもの鏡に映る自分の顔を呼びよせて、そっとそのビルのガラスに映したりする。よし、大丈夫だ。そうそう、これが自分の顔だね、と不安に震える自分の心を安心させて、颯爽と再び街中を歩きだしたりする。
そして、数分、歩いてふと気が付くのだ。
いや、待てよ。さっき、ビルに映った顔は自分じゃないと思ったけど、もしかしたら、俺は普段、あの顔を世間に晒しているんじゃないのか?今まで俺に接してきた人間は、あのビルのガラスに映った自分の顔を元に俺と付き合ってるんじゃないか?そうか、そう言えば、思い当たる節は多々あるぞ。どうやら、俺は鏡に映っていた自分の顔よりも、あのビルのガラスに映っている顔のほうが実は本当の自分の顔なのではないだろうか?
既にこの時点で完璧だと思っていた鏡に映る自分の顔は、ついぞ見ることがなくなる。不承不承だが、ビルのガラスに映っていた自分の顔に一生懸命、自分を合わせようと生き方を整えたりする。
つまり、目的に向かって厳しく自分を律したり、自分の才能を信じて頑張ったり、他人をはねのけても自分を貫いたり、そんな人生を過ごすことができない心優しい、いや、それ以上にお人好し過ぎる人になってしまう、そんな人たち。
ビルのガラスに映る自分の顔を見られて、「あなたの顔は美しい」と言われた。「これは本当の俺じゃないんだ!お前は何も分かっちゃいない!」と言えず、「もしかしたら、美しいのではないだろうか?本当にそうだろうか?いや、そんなことはない」と疑問を持ちつつも、その人が切実にそれを望むのなら、なんとか頑張ってそれを引き受けてしまうような人たち。
櫻井智也脚本のラジオドラマを聴くと、いつもこういう人物像を勝手に思い浮かべてしまうのです。で、それは何を隠そう愛すべき隣人だったり、切ろうと思っても一生切れない自分自身の姿だったりが、そこに投影されているからなのです。
しかし、この人達は、鏡に映る顔を持つ自分を秘かに暖めている。ビルのガラスに映った自分の顔を「美しい」と言ってくれた人が、危機的状況に陥ったとき、その顔がひょいと出てくる。
今回のお話しでも「花火に絵美を誘う」「絵美の父親が現れる」とき、鏡の中に映っていた自分の顔がひょいと出てくる。
こういうところにぐっとくるのですよね、櫻井作品は。
そんな櫻井作品のラジオドラマファンは多い。きっと、FMシアターをいつも聴いている人で、嫌いな人はいないだろう。年に一作品ではなく、できればもっと書いてほしいものである。
それにしても、甲本雅裕さんと高橋理恵子さんはいいですね。最高です。