今日の午前中は空の大部分が雲に覆われていたので、直射日光に炙られずいい具合だと思っていたのですが、昼前からどんどん青空が広がって、結局のところ午後はガンガンに日差しが降って来た今日の散歩おじさん地域でした(;^_^A
さて記事の方は、この度の「成田街道」歩きの3回目です!
前回の記事の最後に載せましたホーロー看板がイッパイのラーメン屋さんから5分ほど歩くと、石仏群が見えてきました(p_q)
近くまで行きますと、こちらも台座に「子安講」の文字が刻まれ、前回の記事でご紹介した「八幡神社」境内の石仏群と同様の観音様でした(^人^)
建立年は様々なのでしょうけど、中の一基には「安永十」の文字が読み取れましたので、江戸時代後期の安永10(1781)年に建立されたのですね!
そして例によって散歩おじさんの自作年表を確認したところ、安永10(1781)年は「近江屋長兵衛」なる人物が、後の「武田薬品工業」に繋がる商いを始めた年であります(@。@)ホホォ~!
ところでこの度の連載の「その一」で、道中再開の直後に「陸上自衛隊習志野駐屯地」前を通過したって書いたのですが、「陸上自衛隊習志野駐屯地」内には「第一空挺団」もあるのです!
なんでそんなことを知ってるかと言えば、新京成電鉄の「歩くイベント」に参加した時、イベント参加者の特典として「第一空挺団」の駐屯地内の建物の中を見学させてもらったことがあるからなんですけどね(^_-)-☆
そんなエリアだったからでしょう、この日は訓練中と思われる自衛隊機を何度も見ました(p_q)
自衛隊のみなさんが厳しい訓練を行われていることに敬意を表しつつ、その訓練で培われたことを発揮する機会がないことを願いたいです!
「子安講」の石仏群から1km弱進みますと「長妙寺」さんに至ります!
こちらには「八百屋お七の墓」という、びっくりの史跡がありましたよ(@。@)
八百屋お七と言えば、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、火あぶりの刑になったという江戸時代の娘ですが、なんでも鈴ヶ森で処刑されたお七の亡骸をこっそり持ち帰った母親がこちらに葬ったのだとか・・・!?
亡骸をこっそり持ち帰るとはお母さんも大胆なことをしたものですけど、いくら江戸時代のこととは言え、処刑された人の遺体が無くなって騒ぎにはならなかったのでしょうかねぇ(?。?)
話は平安時代に飛びますが、藤原時平なる公卿がおりまして、この人物が菅原道真左遷の中心人物なのだそうです!
後に学問の神様として崇められるような人を太宰府に飛ばしちゃったわけですから、時平の子孫は菅原道真の祟りを恐れていたそうなのですが、その時平の子孫がこの辺りに住んでいたことから、大和田には時平を祀る神社が複数あるということで、街道からちょいと細い道に入ると間もなくその神社の社叢が見えます(p_q)
・・・ということで、こちらは「大和田 時平神社」です!
拝殿とか本殿とかいうような造りではなく、小さなお社の神社ですが・・・
お社に施された彫刻が見事でしたよ~(@。@)
大和田時平神社から街道に戻って150mほど進んだ所には「明治天皇行在之処」の石碑がありました!
ここには明治6(1873)年に近衛兵の演習天覧のために行幸された際にお泊りになった「小沢小十郎邸」があったのだそうです(@。@)ホホォ~!
それにしても天皇陛下をお泊めするなんて、名誉なことには違いないですけど、家の人たちはめちゃくちゃ緊張したことでしょうね(^^;