「文章を書くのがつらい」と言う横尾忠則の「言葉を離れる」 | トリップちゃんねる

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当時、イラストレータであった横尾忠則という名前を初めて知ったのは、寺山修司の「続 書を捨てよ町へ出よう」という本に書かれてあった文章からだ。

そもそも「書を捨てよ」というのもおかしなタイトルで『書を捨てたら、読まれることのない本になってしまうよなぁ』と、当時思ったことが懐かしい。この本を読んだのは、まだ高校生になりたての頃であった。


その本の中では、横尾忠則の母親のエピソードが紹介されていた。横尾忠則の母親・てるゑさんが七十八歳で癌で死んだ時のこと。葬式を済ませて、遺品の片付けをしていると、てるゑさんの財布の中から八つに折りたたんだ和紙が出て来た。ひらいてみると、それは古びた二枚の春画であったという。




横尾忠則は、それを見て恥ずかしいような気分とともに、言いようのない懐かしさを感じた。二人の男女が「入れたままにて横になり、女の片足を肩へかつぎ、おのれは身を次第に後ろへねじ廻して半分後取の形」にしているもので、すっかり色あせてしまっていた。



その春画を通して横尾は、母親の存在と言うものをふいに生々しく感じたというエピソードの紹介と共に、寺山修司の文章はヘンリー・ミラーの小説の話に移っていく。



死後に残ってしまった性的な所持品は、現代であれば、裏DVDとか大人のおもちゃとか、もう少し前なら裏ビデオや写真あたりが可能性としてあるかもしれないが、春画であったことが何か抒情性まで感じさせる話しで、ぼくの心に強く残った。



横尾忠則の画集やエッセイ集は、寺山修司の本で知ったその頃から今までにずいぶん購入した。自分にとって一番お金を費やしたアーティストと、いえる。



彼の産み出した絵やイラストの数は半端なく多い。いったいどれだけのスピードで作品を生み出しているのか、考えると『めまい』がしてきそうだ。



絵やイラストから、独特な強いメーセッジが発せられているから、それを創り出している本人も精神的にしんどくならないかな?と思ってしまう。また、絵だけではなくエッセイ集も多い。値段が手ごろなせいもあり、画集よりもエッセイ集を多く買っている。



今回、購入したのは「言葉を離れる」という本。「言葉を離れる」というより、乱暴に言ってしまえば『本一冊に渡って、”自分がなぜ本を読まないか”という言い訳、それを200ページ以上費やして語り切った本』と、ぼくは捕らえている。



この本の出だしは、ある時とりつかれたように中野孝次の本を方端から読んだ時期がありました。という文章で始まる。その後には「10代のぼくにとって読書は美術や音楽やスポーツの得意な者がいるように、一種の才能だと思っていました。」「10代の頃ぼくの中で絵と読書は水と油みたいなもので相対関係にありました」と、10代の頃の読書に対する考え方を書いている。



新鮮だったのは、横尾のこの考え方。
「人間の眼はあんな抽象的な記号の行列の上を滑らすためにあるのではなく、もっとこの世の美しいものを眺めるために神が与えたもので、そのために肉体が存在しているんですから、他人が見たり聞いたり考えたことに依存しないで自分の眼と足で自由に出掛けて行って他人が読書で経験した以上の成果を自らの肉体に移植させた方がずっといいんじゃないでしょうか」



本を読んだらこんなにプラスになります、本はこのように読むべきです、お勧めの本はこれです・・・・・・みたいな本はたくさんある。しかし、本を読まない事を書いて、そのことを肯定している本というのもめずらしく、その本が講談社エッセイ賞を取ってしまうというのも、いかにも既成の価値観に流されない横尾忠則らしい。