2020年 ミラノ スフォルツェスコ城 | かけはし

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日本とヨーロッパの交流コーディネイターのさんぼです。
草の根のちいさな交流が広がれば、きっとお互いにわかりあえる、受け入れられる。

スフォルツェスコ城は、例えば団体旅行でミラノ訪問する場合も必ず見ると思います。中には入らないにせよ、ミラノ市内で観光バスの降車が許されている(いた??現時点ではわかりません。イタリアはいろいろな規則がすぐ変更になる。)数少ない場所ですし、まっすく10分も歩けば大聖堂になるし。

ただ、団体旅行の場合、お城の中をくまなく見学するツアーはあまり無いのではないかと思います。だって、このお城は美術館、各種博物館、図書館などが入っている巨大な文化施設なのですが、一般的に知られている美術品としては、非常に乱暴に断言すれば、ミケランジェロの最後の未完成作品である「ロンダニーニのピエタ」ぐらいと思うんですよ。絵画館には、ルイーニとかコレッジョとかティントレットとか知られている画家の作品もありますが、例えばブレラのマンテーニャの「死せるキリスト」とかベリーニの「ピエタ」のような、だれもが知っている目玉作品のようなものは無いと思うんですよ。だから、あまりここを入場観光する団体はいないような印象です。

 

スフォルツェスコ城は、もともとは有名なヴィスコンティ家が命じて要塞として建てられたものですが、15世紀になって、兵隊上がりのフランチェスコ・スフォルツァが、ヴィスコンティ家のミラノ公が亡くなったことでチャンスをつかみ、自分がミラノ公になってここを居城としたと言われています。

 

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中庭からお城の入り口を撮ったところ。この塔の真ん中のアーチ型の入り口をくぐって右側にチケット売り場があります。

 

 

 

そして、フランツェスコの大量にいる子供の一人が、ブレラ美術館のマンテーニャのことを書いた際に少し出てきたルドヴィーコ・スフォルツァです。彼の妻は、レオナルドに肖像画を描いてもらいたくてたまらなかったけど、結局書いてもらえなかったイザベル・デステの妹のベアトリーチェ。彼の愛人はレオナルドの作品で、今なおポーランドのクラクフに飾られている有名な「白貂を抱く貴婦人」のモデルになったチェチーリアです。

ルードヴィコは浅黒い顔をしていたので、「イル・モーロ」と呼ばれていました。「モーロ」とはムーア人のことで、アフリカのほうの浅黒い肌色をしている人種です。そして、「モーロ」にはもう一つ意味があり、桑の木の意味のイタリア語(Morus)をミラノ弁ではMoronと言っていたらしく、ルードヴィコのニックネームの「イル・モーロ」と似ていることから桑の木が彼のシンボルのようになりました。実際彼は、ミラノ市民に桑の木の栽培を義務づけており、桑の木は絹を生み出す蚕の食糧なので、いまもちょうどミラノ近郊のコモ湖のあたりは絹織物の生産で有名ですが、案外関係があるかもな、なんて想像しています。ミラノで取れた蚕を、きれいな水の豊富なコモ湖まで持って行って、そこで生産したとか。あ、これはわたしの想像ですよ。

 

ルードヴィコは、その治世中、レオナルドのパトロンとして、彼にいくつかの大きな仕事を与えたようです。もっとも有名なものは「最後の晩餐」。そして、今回特別公開されたスフォルツェスコ城の中の「アッセの間」です。

 

この部屋は現在大修復中なので、普段は足場が組まれており、碌に見ることができないのですが、今回レオナルドの記念年なので特別に公開されていたのです。

良く調べてないのですが、これは公開期間が延長になったのかもしれないと思っています。なぜならば、わたしが以前調べたときに、とてもスケジュールが合わなくて観に行けないとがっかりしたのを覚えているからです。何しろ2019~2020年は、わたし、特別に忙しく、130日間ぐらい出張していたぐらいで、出張の合間には家事、子供と夫(彼自身も160日か170日ぐらい出張していたけど)のご機嫌伺い、事務仕事があって、時間に追われていたのです。

パリに一緒に行ったお友達がミラノに行くのを聞いて、念のために「アッセの間」について調べたら、なんとまだ公開中ということがわかって、早急に友達には「何が何でもこれは観に行くべき。」とメッセージを送ったのち、自分自身のミラノ行きの計画を始めました。

 

今回は、わたし、せっかくの機会なので「レオナルドとスフォルツェスコ城」というテーマのツアーに申し込みました。英語のツアーで毎週土曜日の15時からスタートのツアーです。9€でした。

今後このようなツアーに申し込む方のために一応注意事項ですが、9€というのはガイドツアーの料金で、お城の入場料は入っていませんので、ツアースタート前にちゃんと入場券を各自買っておく必要があります。

スフォルツェスコ城は、大聖堂側から来たとして、中庭に入ってすぐ右側にインフォメーションセンターがあるのですが、そこではチケットは販売していません。チケットは中庭を突っ切ってまっすぐ行くと、お城の建物につきますが、向かって右側にチケット売り場があります。時間によっては、チケットを買うだけでかなり待ちます。

わたしは、ツアー料金があまりにも安いので、注意深く案内を読んでいたので、チケット事前購入必要と分かっていたために、お友達とのお昼ご飯の後はすぐにお城に来て、ちょっと並んでチケットを買っていました。だから良かったんですが、忌々しいことに、わたし以外のツアー参加者はそれを知らず、15時スタートなのに、14時55分ぐらいに現れて、全員チケットを購入していないことが判明して、買いに行ったために、それだけでツアーの開始が30分近く遅れました。「アッセの間」は入城人数を制限しているので、グループの場合は時間が決められているらしく、ガイドは非常に焦っていました。

チケット料金は5€です。ただ、ミラノは他にもミュージアムカードとか各種割引カードがあるので、それを利用する人も多いので、今回のガイドツアーが入場料込みのツアーでなかったんだろうと思います。

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日本語のパンフレットもあります。

 

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スフォルツェスコ城は、各種博物館、絵画館などが入っていますが、「アッセの間」がある場所は、お城のチケット売り場がある建物の二階になります。この建物は古代美術博物館となっています。ミラノの偉い領主のお墓だとか発掘物とかそういったものが展示されています。はっきり言ってわたしはほとんどこのあたりはガイドの説明は聞いてないですね。アッセの間が目的ですから。

レオナルドのパトロンであった、ルードヴィコ・スフォルツァは、居城の中に迎賓とか催しに使用するための特別な広間を作りたいと思っており、その天井画をレオナルドに任せることにしたんですね。で、この部屋は各国からの賓客も来るわけなので、なにか彼らしい特別なシンボルを装飾に取り入れる必要がありました。

例えば、外国で伝統的な日本レストランに行くと、日本のシンボルであるとされる装飾品、例えば扇とかさくら模様の何かとか、兜とか、そういったもので飾ってあることがありますが、それと同じと思います。

ルードヴィコは、その浅黒い肌色から「Il Moro」(イル・モーロ)と呼ばれ、桑の木の意味のMoronと似ていることから、桑の木のモチーフが彼を象徴するシンボルとしてこの城の中でも最も大事な広間の装飾に使われることになったと言われています。また、桑の木はもともと英知やし思慮深さのシンボルとされていたので、更に公国の迎賓の間の装飾モチーフとしては最適だったのですね。―というのが今までわたしが調べた知識だったんですが、前にご紹介した「レオナルド・ダヴィンチの秘密」の中に、桑の木が優秀な軍事作戦を暗喩しているということも書いてありまして、妄想と想像を最大限に掻き立てられます。
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河出書房新社 ISBN978-4-309-25566-8 2800円(税別)
 

これ、もう一度紹介します。

レオナルド・ダヴィンチファンのみならず、この本そのものが面白く興味深い物語になっています。お勧めです。

 

この広間は、イタリアの歴史に翻弄されています。

ルードヴィコが、この装飾をレオナルドに依頼して、作業が始まったのは1498年です。その当時は飛ぶ鳥を落とす勢いのミラノ公だったのですが、1499年に起こった神聖ローマ帝国の勢力拡大を狙ったフランスとの戦争の際に、ルードヴィコは神聖ローマ帝国のハプスブルク家側につき、結局は1500年にフランス側に捉えられて幽閉されて亡くなるのです。

 

依頼主がいなくなってしまったこの広間はそのまま放置されます。スフォルツェスコ城は軍事施設として使用されることになって、この貴重な天井画は、制作途中のまま上から分厚い白い漆喰で塗り固められてしまうのです。なんということ!!

 

その後1861年のイタリア統一後、建築家のベルトラミがこのお城の修復を手掛けることになって、その修復中に白い漆喰の下にあるレオナルドの天井画が数百年の眠りから目覚めたというわけです。

 

この天井画の修復作業は最初は、かなり鮮やかな色彩を使って、レオナルドのオリジナルの上に塗り重ねるような方式だったために、万人のイメージする「中世的な色彩のレオナルドの作品」とは全く異なった結果になって、議論を呼び、その後の修復作業は、いま残されているオリジナルをそのまま出し、なるべく安全に保護するというのが目的となっているそうです。

ただ、わたしはルーブルのレオナルド展で、弟子のマルコ・ドッジョーノが模写した最後の晩餐の絵を見ていますが、これはオリジナルの壁画に比べるとかなり鮮やかな色彩です。湿気による崩落とか、カビとかそういったオリジナルが被った被害を受けていないからです。オリジナルの儚い色彩のイメージが強いために、違和感はありますが、考えてみるとこの色彩がレオナルドのもともと考えたものなので(この模写はオリジナルの完成後すぐに描かれている)、この色彩がレオナルドのイメージしたものということもできるので、本来レオナルドが計画していた色にするという方法もまるっきり間違いではないとは思うんですが。

 

レオナルドの有名な「最後の晩餐」の修復は約20年かかっています。とすると、この天井画の修復が終わるのはいったいいつになるのでしょうか?おそらく修復途中でも、何度かは今回のように特別公開がされるのではないかとは思っていますが、機会は限られるでしょう。まだ公開中ということがわかって、すぐさまミラノ行きを計画したのはこの貴重な機会を逃すわけにはいかなかったからです。

 

さて、ガイドツアーは、いよいよアッセの間の近くに移動してきました。この時は、アッセの間の中に観客席が作られており、10分間の映像でこの部屋の歴史を説明するという方法での見学でした。ですから、一度に入れる人数は決まっており、部屋の外で数分間待つ必要がありましたが、その時間を利用して、ガイドさんは、今まで書いてきたような説明をしてくださいました。本当に興味深く、面白かったです。

 

アッセの間の中でのことは、また次の日記に書きます。

もう公開は終わっているので、だれの役にも立たない情報でしょうが、覚え書きとして。

 

さんぼ