昨日、盆の棚経参りにお坊さんがお越しくださいました。
お越しの時はいつも短いお説法をしてくださいます。
昨日は、「正受する」ことの大切さをお話しくださいました。
仏や先祖の思いを正しく受け止めて、天命に気づきそれに務めるために生涯はあるのだと。
仏や先祖の思いを正しく受けとるために、手を合わせて拝むのだと。
仏や先祖の思いを正しく受けとるめることを「正受」というそうです。
お経の中にも出てきていたそうです。
大きな仏壇の中に位牌がぎっしりと詰まっていている光景を見て育ったので、
脈々と連なるご先祖様がいらっしゃることはいつも意識してきたつもり。
それで私は何をすればいいのか?をいつも考えてきたつもり。
だけど、今の姿は必ずしもご先祖様が願っている姿とは一致してない気はする。
意志が強いようで人の影響を受けやすい、
志が高い割には日常が怠惰(笑)、
決まりきったことをきっちり繰り返すことが大嫌い。
そんなことよりもっと本質的に心のもち方に至らないところがあるんだろうなぁ。
それに気づくために今の日々を暮らしている。
ねこ福での毎日は気付きのための最高の舞台。
会社の日常から学ぶことはもうないなんて偉そうなこと思って辞めたけど、正解。
今日は、私を育ててくれたねこ福の祖母の命日。
日付を超えてしばらくした時間が、私を無条件に可愛がってくれた伯母の命日。
1日違いだけど、同じ13−14日の夜。
今まで、親族の臨終に4度立ち会わせてもらった。
他に誰もいないか一人いるかのしごく少人数の中に何故か選ばれて自分が居てる。
見せてくださっているのだろうな。
気付きなさいと。
最初は12歳、20歳、42歳・・・
「死」という出来事を歳を経るごとに明確に捉えられるようになった。
その他の雑事との住み分けもうまくできるようになった。
でも、気付けと言われていることはそんなことではないんだろう。
まだまだこれから。
もしかしたら、幼い頃に「死」から学んだことの中に純粋な気付きはあるのかもしれない。
祖母も伯母もお盆の大往生。
奇しくも二人とも跡取り娘として田舎の家を切り盛りした人。
ご苦労様でした、ありがとうと、それぞれを、一緒に、思い出すお盆の夜です。