そもそも欲をかいてはいけないよって事です。

でも・・・欲ってなんだろうか?

自然の欲求として、腹を満たしたいとう願いがある。

  今、目の前の食物は例え獲ったとしても空腹を満たせない。

  待つことによって、自然の欲求を満たすことができる希望が生じた。

  待つことはこの時点で正解である。

待つことで空腹を満たす可能性がより現実のものとなっています。

二つの卵から順次増量して5匹の雛。

ここで、もう一度待つことでやっと自分の空腹を満たす量となるのです。

もしこの時、当初の見込みの2週間待つのではなく、

さらに1週間待てば空腹を満たして余りある状況だと考えたら

  それは、確かに「欲張り」である。

     罰(?)を受けても仕方ない状況である。

でも、確かに2週間後にワシカは巣に戻ってきたのです。

自然の欲求を満たすために。

結果は、空腹を満たすことはできませんでした。

でも、ワシカのとった行動は当然の行動であり

最後の2週間待ちのときにあと数時間は早ければ良かったのです。

この数時間は、偶然の時間なのです。

よって、ワシカは何にも悪くない。欲張りでもないのです。

さて、・・・・・・・・
      私たちの現実に当てはめてみましょうか?

きっと、欲張ってはいけませんなんていう教訓ではなく

もっと重大な教訓を見いだすことでしょう。

じゃ、
欲張りワシカという絵本がある。

物語はこうだ。腹ペコの山猫ワシカが木の上に鳥の巣を見つける。

卵を二つ見つけ、食べようとするけど、ここで考える。

「二つくらいでは満腹にならない。増えるまで待ってみよう」。

2~3日たって見ると5つに増えている。

やったー!でも、もう少し待ってみよう。

2週間後、雛になっている。

それなら、もう2週間待てば・・・・・。

2週間後、I can enjoy a big dinner today !

巣に行って見ると、鳥たちは巣立っていた。

こんなストーリーのラトビア民話である。

ブレイン・ストーミング(古いなぁ~)の種である。

じゃ、次回へ。

今回、久しぶりの古代の知恵の書から

知恵ある者と共に歩けば知恵を得/愚か者と交われば災いに遭う。
                     新共同訳聖書の箴言、13:20。

自分の持つくせの中で、直しておきたいと思うものがあるでしょう。

それは自分の内では個性であり、こまったくん。

  でも、他の人にとっては、厄介な問題かもしれません。

     厄介さが重大な場合には、気分を害してしまいます。

イエス・キリストの弟子たちにも、欠点や個人的な厄介なくせを持つ者がいました。

ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。  (マルコ3:17)

例えばヨハネは「雷の子(ら)」、と呼ばれていました。

  これは、強烈な性格を表現したものだと思います。

そんな弟子たちをイエス・キリストは「~世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 」(ヨハネ13:1)。

欠点や、度の過ぎた個性などに注目されずに、内面の純粋な心、魂のこもった専心の念をご覧になったのです。

私たちも、このように見てくれる者がいれば、どんなに幸福でしょう。

  自分の欠点や厄介な性格からの行動(良くない習慣)でも、悪い動機からではないと考え、尊厳を重んじてくれる友。

  そんな人とともに歩むなら、自分も知恵ある者となれるでしょう。

良くない習慣を克服するため

知恵ある者とともに歩き、知恵ある者となりましょう。