何気なくメモ手帳を広げてみた。

なぜって!?  --- 何か、言葉を捜して。

「この神は他に依存しない」  ---   見つけました、楽しそうな言葉を一つ。

わたしたちの周りに観る「神」は、例えば何かに依存しているだろうか。

神棚に食事を供えるのは、それが必要だからではない。

神社、仏閣にお参りに出かけるのは、それも必要としているわけではない。

でも、完全にその存在を(人間に)無視され続けられても

    何の影響も受けないのだろうか?

聖書からの話
 
使徒パウロは、使徒言行録17章24,25節で、
 
 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。  また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 (新共同訳)

このように言っています。

世界、万物を造られた神、
      それは人間が唯一関心を寄せるべき神。

何か足りないことでもあるかのように、
      それは何かの行為を求める必要などない。

この2点を考えただけでも、人間が求めるべき神は、何も見返りを必要としていないということがわかります。

逆に言えば、何か見返り(金銭や個人の時間など)を求めるものはここで言う神ではないという事です。

でも、それでは人間は崇拝する(行為をささげる)べき神を見出せないという事なのでしょうか。

否、

続く17章26,27節で、
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。   これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

人に神を捜し求め、見いだすように、また神は人から遠く離れて・・・ではなく、

一人一人から、とあり

   大きく人間全体ではなく、個人というレベルで遠く離れていないと言っています。

イザヤ書40:26で、
 目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方/それぞれの名を呼ばれる方の/力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。 (新共同訳)

宇宙に存在する星のすべてをその名で呼ばれる神ならば

人間一人ひとりを深い関心を持って顧みてくださる事も可能なのです。

私一人と神という関係が成り立つということなのです。

何と言う安心感!!

・・・・

だいぶ話を広げてしまったので、

今日はここまで。

では
正確には、5月31日の午前3時30分(頃)の出来事。

室外から小さな換気口を通して聞こえてきた”ガサゴソ”という音。

最初は思い出せなくて、ベランダの何かに風が・・・??

そして、換気扇のことをお思い浮かべたところで思い出した。

コウモリだ!!

以前、ブログにも書いたけどあのこうもりが戻ってきたのだと確信した。

コウモリ=アブラコウモリって言うんだけど、一般にはイエコウモリ

この種類だけが人の生活圏に入り込んできているらしい。

懐かしいけど、でも換気口を覗かない。

お互い干渉しないでいて、ちょっぴり気にしているくらいが一番良い。

ということで、コウモリがやって来た話題でした。

日付が変わり4日となり、GILLsound Vol.1 から

                 Winter Dream聞きながら・・・・・・

まだ眠らない。
土曜日は歩く。

椅子に座っていることの多い生活なので、歩く行為は人のそれと

違ってたくさん歩くのだ。

たくさんという言葉はとても便利で、それでいて曖昧である。

距離や時間を計ったのではないけれど、だけどたくさんなのである。

だから、自分との関係では曖昧ではない。

他の人との関係において曖昧なのである。

私はこの曖昧さが好きだ。

私が実際に歩いた距離を、話の相手はどのくらいに判断しているの

だろうか。そう空想しながら、わざと、このたくさんという言葉を使う。

しばらくして、わたしの「たくさん」と相手の「たくさん」が

実体の伴わない一致をする。

相手が、必ず合わせてくれる。

この時が

とてもいい。

さて、歩くことだけど・・・

って、ここで時間が・・・

じゃ、また。