平等 | 学生団体S.A.L. Official blog

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慶應義塾大学公認の国際協力団体S.A.L.の公式ブログです。

インドに滞在してちょうど一週間。
ムンバイという都市にある、
海上モスクを訪れた。

休日ということもあって、
道は観光客と礼拝をしに来た人々で
ごった返していた。
賑わうその道の脇には、
数えきれないほどの物乞いの姿があった。

手がない人。足がない人。
生きているのかさえも
わからない子供を抱く母親。
五体満足の人を探すのが難しいほどだった。

直視することはできなかった。
お金をあげることもしなかった。

ふと、お昼ご飯のことを思い出す。
100円程度でご飯が食べられる世界で
3000円近くもするカレーだ。
物価が違うからこそできる贅沢。
日本でそのような食事をすれば、
数万円は下らないだろう。

物乞いは必死で
1ルピーコインを握りしめる。
私はその1ルピーが
気にもならないような
値段のカレーを食べた。

物乞いは仕事だ。
お金を稼いで生活している。
物乞いは望まない世襲だ。
親と同じ道を子も辿る。

物乞いは果たして悪なのか?
私と何が違うのだろうか?
存在は知っていた。
自分なりの向き合い方も
心の中で決めていた。
それでも何が正しいのかさえ
わからないでいる。
直視できなかった光景が
さらに私を葛藤させた。

高級カレーを食べて過ごすインド人がいる。
その一方で、
他人に手を差し出して生活する人々がいる。
理解していたはずの現実も、
目の前にあると息苦しかった。

コインの価値は皆同じ。
誰に対しても平等だ。
それ以上でもそれ以下でもない。

同じ価値のはずなのに、
コインの重さはあまりにも違う気がした。
自分にこの重みが
わかるものなのだろうか。

モスクへ続く一本の道と
歩みを止めない人の列。
モスクは神に祈りを捧げる人々で溢れ返る。
路肩に留まる人々には目もくれない。
結局自分もその一人でいる。

取り残された人々には、
祈ることさえも許されないように見えた。

神よこれは平等なのですか。

【文責:マネジメント局2年 守屋和穂】